4月23日 上山→永瀬

 私には世界中の美術作品、あるいは美術史そのものが、一種の制度分析あるいは各作家の歴史や環境との交渉過程のlogに見えて来ます。このlogという言い方は濱野智史さんの議論とも絡むものです。 (略) 私の作品は、キャンバスや絵の具といったマテリアルあるいは美術史・同時代の美術状況と私(という主体)の、道具を仲立ちにした「交渉」の痕跡の集積であり一種の議事録として考えています(こういう視点だと、工芸的に表面が仕上げられて「交渉過程」が隠蔽された作品が縁遠くなります)。

 私はこれを、《社会参加の臨床》というモチーフで考えているのではないか…。

    • 何をもって「社会参加に成功した」と見なすか
    • 苦痛緩和に有益なことは何か

という議題設定なしに、専門性だけを強調するのは、順応主義の誇示にすぎない。 それは「社会参加の臨床」にとって、有害というか、マッチポンプ的な態度ではないか。


 ご紹介いただいた濱野さんの文章、おもしろいです。
 「建築家不要論」に即していえば、「臨床家不要論」がある。
 多くの患者さんは精神科医を「クスリの販売機」みたいに考えていて、それ以上の機能を期待していない。臨床心理学からも、『「心の専門家」はいらない (新書y)』として、クライアントへの操作主義でしかないような技法や、「こころのケア」のイデオロギー性が否定される。


 社会参加をめぐる苦痛を、固有の文脈を無視した専門用語に還元して「論じた」つもり、「対応した」つもりになることの犯罪性というか。 順応を論じている本人の幼稚な順応主義。
 いずれのばあいも問題は、交渉過程の複雑さを捨象・抑圧することでしょう。 苦痛の来歴を問うことが、専門性の来歴を問うことと同時にないと、作業場そのものがウソになってしまう。(それは事後的には、法的な紛争処理の粗雑さになります。)


 これは、コミュニティが無自覚的なイデオロギーに支配されていることでもあります。 お互いへの批評を拒否する「フランクな」関係性は、じつはひどく抑圧的だったりする。 永瀬さんも少し書いてくださいましたが、中身がどうこうじゃなくて、考えようとする態度が否定されるわけです。
 「○○不要論」は、じつは仕事の作業場そのものを主題化することではないでしょうか。 必要なのは、専門職をベタに締めつけなおすことではなく、ルーチンとして設定された「専門的な仕事」の現場が、交渉過程を再度根源化することではないか。


 こう考えてくると、作家性の神話は、創造性の尊重に見えて、じつはそれ自体が順応主義に思えます。むしろ現場を考え直す分析のていねいさのほうに、創造性というか、開かれた要因がある。(「交渉過程の根源化」は、悪しき原理主義ではなく、開放的なプロセスの提示を、イデオロギーとは別のかたちで行なうことだと思います。)