「人格と作品は分けられない」という話をするときに私が何より考えているのは、
人格はそれ自体が一定のスタイルを伴った制作過程であり、また作品そのものである
ということです。だからそもそも、「人格と作品を分けられる」という発想自体があり得ません。
私たちの環境は、私たちの《作品≒結果》であり、それは
集合的な作者としての私たちと切り離して検討することはできない。
つまり、マルクスの労働過程論を参照し、
人格そのものを「様式を伴った生産過程」として考えているわけです。*1
一定の生産様式は、それに応じた生産関係を伴う
――そういうモチーフで、人間関係のことも扱いたい。
人格そのものを《生産》のモチーフで語る視点は、フェリックス・グアタリが出していますし(PDF直リンク)、それを承けて何人かの論者が話題にはしていますので【参照1】【参照2】、私の議論が突然変異的に孤立しているわけではありません。*2
《つながりの作法》も、じつは「生産様式/生産関係」というモチーフに結びついていたわけです。
人格と作品を分けるべきだ、という主張が根強いのは、
おそらく「人格と作品は分けられない」と言った瞬間に、
既存のおかしな主張をいろいろ巻き込んでしまうんだと思います。
ひとまず言えるのは、私が「人格と作品は分けられない」というときに問題にしているのは、あくまで《技法》の話ですが、既存の人格論では、《道徳》の話になっている。
そもそも既存の批評は、人格と作品を分けているでしょうか。
たとえばアール・ブリュットは、作者が美術教育を受けていないことが条件だそうですが――そうであるなら、作品の評価を考えるにあたって、作品だけを独立的に批評しているわけではなく、作者の属性が関係しているわけです(参照)。これは私の立場とも違うでしょう。*3
つまり、すでに存在している批評言説は、作品と作者を分けていない。ところが、スローガン的なタテマエとしてのみ、「作品と作者は別」とやってる――欺瞞がありませんか。
「マイノリティだから許される」というのがあるかぎり、
《作品≒結果》と《属性・技法つきの作者》は、切り離されていない。
ここに切り込むという意味でも、作品と作者は切り離せません。
いずれも環境要因として、相互的な関係の中でやり直しの必要に迫られるからです。*4
「マイノリティのやったことは別格で扱おう」が規範として固定されたまま、
「人格と作品は切れない」と言ったんでは、
たしかにまずい主張になりそうです。