「聞き書き」と、生身の関係の技法

king-biscuit 【聞き書きは、なぜ「難しい」ものになってしまったのか : 「聞き書き」という手法の本来的可能性についての一考察CiNii



私はこれまで、

  • 学術言語 身体的に立ち上がってくる分析
  • 上から見下すような「調査」の目線 実際に生きられる関係性の技法実態(≒スキャンダル)

この対立を考えるのに、《メタ》《超越論的》など、
哲学系の言葉づかいをメインにしてきたのですが参照
民俗学にも、近いモチーフがあり得るんですね。


私は《当事者》という言葉の文脈に居ながら、問題意識がやや孤立していて、既存の言説に手掛かりがなかったのですが、そこにヒントを頂いた形です。「フィールドワーク」「参与観察」だけでなく、対人支援や、それに関わる政策の界隈におられるかたにも、この king-biscuit さんの文章は読んでほしい。


主観性や関係性というのは、生身のからだを伴った、しかも具体的な時間にかかわる問題なので――知識や規範命題を振りかざして悦に入るような議論とは、別のモチーフが要るわけです。



いくつか引用してみます(強調は引用者)

 生身の主体との関係と場という変数を介して立ち現れるしかない「話しことば」

 「はなし」とは関係に宿るものであり、だからこそ「問答」という形式も重要なものとして意識されるようになっていた、と考えるべきだろう。「問答」は「はなし」を現前させる手続きとして考えられていたのであり、あらかじめ紙の上で「項目」的に個々にバラバラに設定されるものではなかった。これは後の「調査項目」のような事前に整えられた「項目」を中心に「問答」を想定するような調査なり「聞き書き」なりのイメージとはある意味全く逆方向からの、あくまでも生身を介した現場での感覚や経験をもとにした想定と言える。

 「きく」こと自体の困難さというより、そのような予断や目的意識を抱え込んだ特殊な聞き手の側であるこちらの生身の裁き方、内面も含めた屈託の仕方みたいなものが例外的なもので厄介でめんどくさいがゆえに、

 話す主体と聞く主体との間に、その関係の場に間主観的に宿り共有されるであろう何らかの文脈を伴った「はなし」こそが、聞き書きによって合焦されるべき現場での一次的対象であったはずなのです。とは言え、それは「論理」や「文脈」を整然と、ほとんどリニアーな展開しかないかのようにたどりながらある一定の「結論」なり「到達点」なりに至る、といったものでは全くない。

 これら「会話/おしゃべり」には、話す側と聞く側の「関係」の問題が抜き難く介在しています。それはありがちなラポールがどうの、信頼関係がどうの、といったレベルではもちろんなく、共に生身の人間である以上、属する社会的立場もあれば背景も文脈もあるし、何よりどのような経験を経由してそこにいるのか、そしてそれはその後の過程も含めてどのように変わってゆくのか、といった膨大な変数と共に設定されざるを得ない、いずれあれこれからみあった「関係」でもあります。

 「聞き書き」とは、生身の主体を文字/活字の間尺や速度とはひとつ別なところにある言葉本来の意味での日常の流れ方の方へと橋渡ししてゆく、そのことによって文字/活字の間尺や速度の本質的な方法性をも活性化し、日常との関係をうまく整えてゆく、そういう可能性をはらんだものだったはず



(以下は私のメモです)

    • 「確固とした対象世界」から、官僚的な学問言説が何かを盗み取ってきて、それをメタの王国で一方的に吟味する――というような態度はおかしいんじゃないか、という話だと思います。
    • 調べたいフィールドがあるとして、それを「調べる」というのは、調べる側も生身であり、俗世のしがらみと思惑、そして具体的な技法(手口)にまみれている。それを棚に上げて、なんで自分だけが神様気取りなのか。
    • 調査に当たって営まれた関係性そのものが、重要な再検証の材料だ。むしろそこにこそ、双方の実態が(関係性を通じて)表れているともいえる。「調査だから学者は許される」といった簡単な話ではないし、また逆に、調査対象者や、あるいは調査という行為そのものを神聖視すればよいという話でもない。調査であれ何であれ、具体的に関わりを持つというのは、双方向的な、偏りを持った事業のはずだ。(規範意識によって、あらかじめすべてを決めつけておくことも、けっきょくは欺瞞にしかならない。実際の関係がどうであったかは、あとになって調べてみるしかない)


その「具体的な技法(手口)」に関して



「言説権威と弱者ポジションの恣意的な使い分け」というのは、*1
表舞台から隠された場所でも、対人関係を構造化する強力な手口になっています。




録音機器の発達と、声の場所からの疎外

    • 観察者から分離され、差別的にカテゴリ化された「対象そのもの」
    • それを「客観的に」読み取る、と自称する学問言説

king-biscuit氏の論考では、こうした欺瞞が録音機器によって醸成されたところもあるのではないか、という話になっています。これは私にとって重要な気づきでした。

 音声が「音」として改めて日常の内側に意識されてゆく過程もまた、録音機材が新たに存在するようになって現実のものになっていった。「会話/おしゃべり」の〈いま・ここ〉に「はなし」を発見し共有してゆく「きく」作法もまた、録音機器を介した音声が遍在してゆく情報環境の変貌の中、〈いま・ここ〉からどんどん乖離させられてゆく過程をくぐってきたようです。もちろん、それは生身も共に「会話/おしゃべり」から、つまりはそれらが宿る〈いま・ここ〉からも同時に縁遠いものにさせられてゆく過程、でもありました。
(king-biscuit「聞き書きは、なぜ「難しい」ものになってしまったのか――「聞き書き」という手法の本来的可能性についての一考察」より)



生活に紛れ込んだ録音機器が、メタを気取る学問言説と結託する(いつの間にか)。


物質化された記録が権威化され、話し言葉にフィードバックしていく――という話は、フランスのジャック・デリダの議論を部分的に思い出しますが
たとえばデリダ研究の周辺から、《生身の関係性の技法》をめぐる試行錯誤というのは、出てこないんでしょうか。


言葉と関係性をめぐる暗黙の技法は、
私たちの政治状況にすら影響を与えているはずです。



知性のありようと、生身の失地回復

 かつて「問答」として、「質問項目」的な整理をひとまずされていた「聞き書き」の現場における「はなし」を「きく」上演のありようをもう一度、「聞き書き」や「インタビュー」「取材」といった現在のもの言いに即して回復しようとすること。時間と手間とをかけた「なじむ」過程を生身を介してたどってゆこうとすることを意識的に、方法的な自覚と共に、注意深く慎重に試みようとすること。ある時期までは言わずもがな、当たり前のことだったかも知れないこのようなことを、敢えて言葉にし、改めて自省してゆく素材にする面倒をくぐってみないことには、昨今のこのような情報環境で、「聞き書き」その他生身を介しての、文字/活字を自明のメディアとして編成してきた知性のありようの相対化とそこから先、想定されるべき生身の主体の「自由」の失地回復という本願は、その姿さえとらえにくいものになってしまっているようです。
(king-biscuit「聞き書きは、なぜ「難しい」ものになってしまったのか――「聞き書き」という手法の本来的可能性についての一考察」より)



ここで記されていることが、
私たちの言葉のあり方と、関係性や主観のあり方に直接かかわるとすれば――それを《臨床》というモチーフに結びつけることは、さほど強引ではないと思うのですが。




*1:この指摘に関連し、「社会学のうさんくささってプロレスに相似している」という指摘をツイッターでいただきました参照。これは少し考えてみたいです。