- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2011/10/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 13人 クリック: 146回
- この商品を含むブログ (128件) を見る
読んで良かったです。
自分も近いところで考えているけれど、照準の作り方が違う、
――じゃあ違うとして、自分はどうなのか。
そういうことを考えさせてくれました。
以下は反論というより、私がやるべき仕事の、スケッチのようなことです。
主観性の様式は、すでに技法を含んでいる
思考は、「不法侵入を受けて」生じる(p.326)。 この受動性はものすごく大事。
國分氏の議論では、これが「楽しむことは思考することにつながる」という、積極論で終わる(p.352)。 しかし引きこもり状態では*1、思考は状態の悪化に加担してしまう。思考は、硬直する過程と同じであり、それと同じ形を生きる。考えるプロセスは、「考えるという自傷行為」にすらなっている。つまり私たちは、単に思考を肯定するのではなく、そのスタイル(様式)を問い直さねばならない。
本書 p.351 より:
思考する時、人は思考の対象によってとりさらわれる。 《動物になること》が起こっている。
この「動物になる」は、思考という労働過程であり、
そこには(思わず知らず生きられてしまっている)生産様式がある。
――というところで、私は本書を、マルクスの労働過程論と重ねたい(参照)。*2
主観性そのものを、《作り、作られる生産過程》とみなすグァタリ(Félix Guattari)的な発想を経由すれば、本書全体を、労働過程論として読むこともできると思う。*3
人が退屈しつつも何かに取り組むとき、それは「動物になっている」というが(p.333)、
動物は、人のような形で動詞的といえるだろうか。
つまり動物の生は、言葉の絡んだ運動であり得るか?
→ 言葉が絡まないゆえに、動物の生には 《技法》 が問われない。*4
ドゥルーズ/グァタリの議論では 《不定詞 infinitif》 が重視されるが(参照)、
これはとりもなおさず、次のようなことではないだろうか。
- 「動物になる」ことにも、スタイル≒様式がある。 そこに歴史性や、工夫のしどころが残っている。
私は、そのスタイルをめぐる工夫を、倫理ではなく 《技法》 と呼んでおきたい。*5
本書は、「暇と退屈の倫理学」と題されているが、私が自分の必要に即して、あるいは引きこもりに即して名づけるとしたら、「下痢と強迫の技法論」のようになる。 意識による管理がうまくいかず(下痢)、むしろ逆の効果を持つこと(強迫)。*6
それは直接には自分のことかもしれないが、《自分たちの技法》を集団的に問い直すことは、まっすぐ「他人に関わる」(p.356)より、適切な取り組みになる。直接「他人」にアプローチする人は、自分の善意と目的意識を疑わず、自分が技法として何を生きているかに気づかない。*7
「どうしていいかわからない」という危険な状態
プロセスとしての自分をうまく構成できない――それは、退屈というような安全な感情ではなくて、人生全体を棒に振るような、破壊的な反復ではないだろうか。
だからそれは、ファシズムへの基本的な動機づけにもなる。
贅沢というなら、この破綻を誤魔化さずに考えられることが最も贅沢なのだ。
つまり「退屈の第二形式」の贅沢さ(p.304)は、空虚を誤魔化さないところにある。
破綻の発作に苦しみつつ、沸いてくる分節の必然を、そのまま生き直すこと。*8
また「日本」は、空虚への処方箋として際立っている(p.314〜)。*9
本書 p.296、ハイデガーの決断主義に関して:
決断とは何もないところから何かを作り出すことであろう。したがってそれは常に無根拠であろう。
根拠づけの底が抜けているのは、「だからこそ生成に場所を与えられる」でもある。
それをたんに「生成」と、名詞形で名づけて(価値的に賞賛して)終わるのではなく、
動詞として引き受け直せるかどうか。
それは単に個人的ではなくて、集団的な課題のはずだ。
*1:私はひとまず極限形として引きこもり状態を考えるが、逸脱せずにキャリアを重ねる人にとっても、本エントリの論点は意義をもつはず。 「働くことと愛すること」(フロイトの考える人生の柱)において、意識や関係が硬直してしまう、そのことへの処方箋がうまくいっていない。
*2:本書 p.72〜 の「定住革命」は、所有と労働をめぐるマルクス的なモチーフへの、大事な視点と感じた。
*3:とらわれたり、巻き込まれたり…。本書末尾の「時代との妥協」は、飢える子どものことに限らない。私たちが日常的に巻き込まれる集団的な自己管理のあり方、つまり《私たちの生産様式》の問題でもあるはずだ。
*4:本書 p.285 で提起された「環世界間移動能力(inter-umwelt mobility)」を、私は《技法》の有無で理解したい。 つまり環世界の固定とは、「技法をやり直す必要も能力もない」ことを意味する。
*5:ラボルド病院的な制度分析や schizo-analyse は、技法論的な提案であり、まさに《不定詞のスタイル》が提案されている。それは動詞であることの技法だが、言語学が扱うのとはやや別の問題だ。 cf.「マルクス主義にいたるまで、資本制的政治経済は長い間、あらゆる経済の普遍文法であるかのように振る舞った。言語学は今のところ、それを独自にやり直してくれるような、おのれのマルクスとエンゲルスを見出していない」(グァタリ『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』邦訳p.377、やや改変)
*6:スイッチが切れないという強迫性(参照1)(参照2)は、「ポスト・フォーディズム」(本書p.132〜)と連動している。
*7:《当事化》という動詞形は、ここでこそ生きられる(参照)。 名詞形の「当事者」で自分や他人を特権化し、倫理的正当性のアリバイにするのでは、《動物になること》の技法が問われない。
*8:私にとって、「欲望する生産(production desirante)」とはそういう話だ。 制御できない空虚と、それによる破壊を「我慢しろ」というのは、思考するな(≒生産するな)というのに等しい。