剥離による蘇生――ドゥルーズとグァタリ

思想 2013年 01月号 [雑誌]

思想 2013年 01月号 [雑誌]

p.87〜p.123 に掲載されている、
國分功一郎ドゥルーズの哲学原理(4)――構造から機械へ」
を、くり返し精読した。
ドゥルーズとグァタリの関係について、原理的な実態に踏み込んだ正面からの考察なので、関連領域に興味のあるかたは、ぜひ読んでほしい。以下では、私なりに気づいたことをメモしておく。



《離脱≒剥離》としての détachment

グァタリの論考「機械と構造」*1を國分氏が訳しなおして引用した箇所より(p.93):*2

 この無意識の主体性――シニフィアンの連鎖を頂く裂け目としてのそれ――が、個人や人間集団の外へと転移され、機械の次元へと向かうのが本当だとしても、機械に独自の水準ではそれが代理=表象しうるものではない〔non representable〕ことに変わりはない。機械の表象を表象するものという資格で機能することになるのは、無意識の構造的連鎖から離脱したシニフィアンである。

 機械の本質とは、まさしく、表象作用をもつもの、「微分作用」をもつもの、あるいは因果上の裂け目としての一つめシニフィアン離脱するこの働きのことであり、これは構造的に確立された物事の次元にとっては異質なものである。この作用こそが、機械を次の二重の相貌の帯域に結びつける。欲望する主体と、それに対応する様々な構造的次元を基礎付けている根幹部であるというこの主体の地位、これら二つの相貌の帯域に、である。機械は、特異的なものの反復として、主体性がもつ多種多様な形態の一義的表象の様式――唯一可能なる様式――を構成している。ここに言う主体性とは、個体的ないしは集合的な平面での一般的なものの次元におけるそれのことである。

そのフランス語原文:

 S'il est vrai que cette subjectivité inconsciente, en tant que coupure surmontée d'une chaîne signifiante, se trouve transférée hors de l'individu et des collectivités humaines, vers l'ordre de la machine, elle n'en demeure pas moins non représentable au niveau spécifique de la machine. C'est un signifiant détâché de la chaîne structurale inconsciente qui fonctionnera au titre de représentant de la représentation de la machine.

 L'essence de la machine, c'est précisément cette opération de détachement d'un signifiant comme représentant, comme « différenciant », comme coupure causale, hétérogène à l'ordre des choses structuralement établi. C'est cette opération qui noue la machine au registre à double face du sujet désirant et de son statut de racine fondatrice des différents ordres structuraux qui lui correspondent. La machine, comme répétition du singulier, constitue un mode, et même le seul mode possible, de représentation univoque des diverses formes de subjectivité dans l'ordre du général sur le plan individuel ou collectif.

(Félix Guattari, "Psychanalyse et transversalité", p.243)



ここで國分氏が「離脱」と訳した「détachment」は、たんに能動的に操作できるような、たとえば「quitter」などと表現できるような事態ではない。 むしろ、意識の編成されるプロセスそのものを、唯物論的に(ということは、能動性に還元しないで)論じようとしている。

グァタリが、「主観性の生産(production de subjectivité)」というモチーフを論じ続けたことを考えれば(参照)、この「détachment」は、主観性それ自体の、唯物論的な生産過程の契機ではないだろうか。


そう考えると、この「détachment」は、マルクスの以下の表現に重なる(参照)。

 ヘーゲルの『現象学』とその最終的成果とにおいて――運動し産出する原理としての否定性の弁証法において――偉大なるものは、なんといっても、ヘーゲルが人間の自己産出をひとつの過程としてとらえ、対象化〔Vergegenständlichung〕を対象剥離〔Entgegenständlichung〕として、外化として、およびこの外化の止揚としてとらえているということ、こうして彼が労働の本質をとらえ、対象的な人間を、現実的であるゆえに真なる人間を、人間自身の労働の成果として概念的に把握しているということである。

同箇所の、ネットで見つかったフランス語訳(参照)では:

 La grandeur de la Phénoménologie de Hegel et de son résultat final - la dialecti­que de la négativité comme principe moteur et créateur - consiste donc, d'une part, en ceci, que Hegel saisit la production de l'homme par lui-même comme un processus, l'objectivation comme désobjectivation, comme aliénation et suppression de cette aliénation ; en ceci donc qu'il saisit l'essence du travail et conçoit l'homme objectif, véritable parce que réel, comme le résultat de son propre travail.

Entgegenständlichung には、「dés-objectivation」という造語が充てられている。日本語訳の解説を見ても(参照)、これはドイツ語として、かなり異様な表現なのだろう。


グァタリがこの箇所を読んでいたかは不明だが、*3

 主観性そのものを、唯物論的な生産過程として論じようとした文脈にある

という見立ては、使えるのではないだろうか。
つまりそれは、「下部構造に対する上部構造」とか、アルチュセールイデオロギー論とも別のスタイルで、意識の営みを論じ直そうとしている。


マルクス本人はのちに、生産過程を「生きた労働」等の概念で論じ直している(参照)。 グァタリは、生産の過程が資本のもとにあるか(労働力として売買されるか)だけでなくて、その生産過程が、素材レベルでどう編成されるかの話をしている。*4



唯物論と、タダモノ論

この点について國分氏は、次のように述べている(p.92):

 たとえば彼は突如「人間労働」と「機械労働」に言及し、人間の振る舞いが機械の秩序の部分的過程になっていると言い始める。ここではつまり、工場で使われている印刷機や加工機械などが念頭に置かれている。ガタリはそこからまた資本主義における労働者の疎外にまで話を広げてしまう。「機械と構造」というテクストにおいては、抽象的な意味での「機械」というモデルと、具体的な意味での「機械」とが、十分に架橋されぬまま重ね合わされているように思われる。



「抽象的な意味での機械」といっても、それが主観性そのものの唯物論的過程であると考えれば、「具体的な機械」と連動し、いっしょに資本に巻き込まれる、という話になる。――つまりここでは、《タダモノ論的な機械》と、唯物論的な機械》とを、切り離すのではなく論じようとしているのではないだろうか。


「資本が労働力を買う」というだけの話なら、《構造》概念でじゅうぶんだが*5具体的な日時を持つ労働時間のディテールは、素材もろとも「生成する」しかない。それはあらかじめ仕切られた時計時間を離れ、いわば「蝶番の外れた」、しかしこれ以上ないほど健全な、質的な複雑さを生きるだろう。素材は、おのれの肺で呼吸を始める。
ところが資本のもとでの労働過程では、こうした蘇生は禁止され、「具体的な機械」に、すべてが収奪される(参照)。 唯物論的な機械として生成することを禁じられた人間の労働は、タダモノ論的な機械の付属物でしかない。*6


――こう考えれば、グァタリの議論はさほど飛躍には思えない。またこれは、「物質に付け加わる新しい主体性」というドゥルーズ的論点にも、なじむように見える。*7



記号過程の新生

國分功一郎ドゥルーズの哲学原理(4)」、pp.95-96 より(強調や段落分けはブログ主)

 ガタリ

  • 機械の本質とは、まさしく、表象作用をもつもの、「微分作用」をもつもの、あるいは因果上の裂け目としての一つのシニフィアンが離脱するこの働きのこと

だと述べている。この「一つのシニフィアン」はファルスのことを指している。「離脱(détachement)」が何を指しているのかは判然としない。しかし右で我々が述べたことと繋げて考えてみるならば、ガタリがこの「離脱」という語のもとで、欲望を単一の欠如から説明する理論設定の変更を考えていることは明らかである。
 そして更に、この「離脱」の作用によって、機械は「欲望する主体」とその「地位」に結びつけられると述べられている。機械が単に主体ではなく、「欲望する主体」に結びつけられていることは重要である。それは機械の概念が欲望を中心に据えたモデルであることを意味しているからである。

 それにしても「離脱」は本当のところ何を意味するのだろうか? 
 ラカン精神分析では、最初のシニフィアンであるファルスが放棄されている状態を「排除(forclusion)」と呼び、これこそが精神病(神経症ではない)の発症の根本原因であるとされる。この理論ではファルスは最初のシニフィアンとして無意識の中にしまい込まれねばならなかった。これが原抑圧である。つまり精神病は、原抑圧が「正常に」機能していなかったために発生するものとして説明される。
 ガタリが言う、ファルスというシニフィアンの「離脱」は、この「排除」のメカニズムを想起させずにはおかない。つまりガタリは、ラカン派的構造で人間を見ていくと、正常な原抑圧があって象徴界への参入が起こると説明できてしまうが、実際には原抑圧はそのような強固なものではなくて、ファルスは容易に「離脱」するのであり、機械という視点からはそれが理解できるのだと言いたいのではないだろうか?



《離脱≒剥離》するのは、ファルスだろうか。
そもそもグァタリの議論が、最初からファルスを前提にするだろうか。


これはむしろ、

 記号過程が、既成の差異の体系から《離脱≒剥離》する

という話ではないだろうか。 つまりこれは、
記号過程の編成を、原抑圧とは別のスタイルで論じ直そうとしていないか。*8


それは、「意図的に行う」とも、「押し付けられた」とも言えない。
そして、既存の記号編成の自動的作動からの剥離は、新しい分節の必須の条件であり、そこからオリジナルの明晰さが、出来事として生成する。


これは、外側の中心に支配されない《内的な法 loi intérieure》創発を、説明したものに見える(参照)。 この法の時間は、唯物論的な《機械》の時間と重なるはずだ。(タダモノ論的な機械は、物理法則には従うが、内的法は関係ない)



「原抑圧」で中心化されては、事件としての分析が、独自の法にしたがって創発しない。剥離なしには、真に新しい分節のやり直しが生じないのだ。 グァタリが ダニエル・スターン に言及する箇所では、いつもこの話をしている。
参照1】 【参照2】 【参照3



ラボルド病院における、創発的な超越

ファルス的な中心に頼らない分節生成は、ラボルド病院の臨床技法において、つねに問われている*9。 しかし、では《中心》の概念セットに頼らない活動は、どのように成り立つのか?――それはたとえば、《垂直性+水平性》のもんだいとして主題化される。
以下、グァタリの論考「Transversalité」(1964年)より:*10

 Transversalité*11 とは、次のものとは反対のものである。

  • 垂直性。 例えば長、副といった、ピラミッド構造の組織体が行う描写において見いだされる。
  • 水平性。 これは病院の巣窟のような場所、興奮の収まらない患者が入れられた隔離棟(le quartier des agités)、さらには〔薬や電気ショックで〕惚けてしまった患者が入れられた隔離棟で実現されてしまうかもしれないもので、ものと人がそこにある状況と出来るだけ折り合いをつけているような事態として実現される。

ここで、

  • 「垂直性」は、編成のたびに参照される、超越的なもの(縦軸)だろう。
  • 「水平性」は、単にバラバラな並存であり、新しく何かが編成されることがない。



原抑圧の概念セットは、生の編成に、つねに同じ超越を導入してしまう。
これがつまり、國分氏の解説する次のような状況だ(p.95):

 そこで想定されている欲望が、常にただひとつである
 いかなる欲望も〈対象a〉を、つまり Φ(フィー) を求める

ここでは、おのれを編成するにあたっては、つねに同じ中心に基づかなければならないし、そうでなければ、周囲にいるほかの編成に合流することができない。私は、以前の私と同じものを、そして周囲と同じものを欲望しなければならない。
それゆえこれは、主観性や集団の編成における、硬直した再生産の原理そのものである。つまり原抑圧の理論は、教会・軍隊・資本など、党派的な主観性や集団の再生産を、うまく説明しているし、その説明原理を自らに適用する人たちは、その本人たち自身が、ある党派性を再生産し続ける。*12


いっぽう、単に放置された並存*13では、垂直軸はない代わりに、新しい編成も起きない。つまり単にバラバラであるとは、これ以上ないほど管理された状態であり、実は硬直している。



あくまで実務的な、技法上の工夫

ふつうはこれを「ポストモダン」と言って、たんなる相対主義で終わるのだが、
グァタリはむしろ、そのような状況におけるやり直しにこそ、取り組んでいた。
つまり、技法論的な処方箋を出そうとしていたのであって、これは「提案」の試行錯誤でしかあり得ない。「スキゾ的な社会」を確認して悦に入っていたわけではないのだ(参照)。


学術的な素養では圧倒的だったドゥルーズが、それでもグァタリにこだわったのは、この《技法論的な源泉》を、彼に感じたからではないだろうか。(この意味で、國分氏の著書が『スピノザの方法』と題されているのは示唆的だ。)

 ドゥルーズは「ガタリの思想」の外側にいて、それを観察者として眺め、報告しているのではない。自由間接話法を用いて哲学者を論じていた時のように、語っているドゥルーズは、語られる側にあるガタリに生成変化している。 (國分、p.90)

ドゥルーズは、グァタリ的生成の方法≒技法をこそ、我が物としたのではないか。


そもそもグァタリが、「剥離(détachment)」ほか、さまざまな新語を導入したのは、原抑圧の垂直性とは別の仕方で、しかしバラバラな並存に硬直するのでもなく、主観性や集団を編成し直すプロセスを蘇生しようとしてのことだろう。*14
これは、たんに「哲学的な認識」を目指してのものではない。
極端な順応主義や断片性に硬直する(今なら「普通精神病」と言われるような)現象に取り組んだ、臨床的な(苦痛緩和の)趣旨をもつ概念提出だったといえる。唯物論的な意味での《機械》概念も、そうした技法上の提案だろう。*15


ここを間違うと、そもそもグァタリが何をしようとしていたか、さっぱり分からなくなる。





触媒としての《制度》

「機械と構造」の収められたグァタリの単著に寄せたドゥルーズの序文は、
ラボルド病院の制度論を扱っている(参照)。*16
つまりドゥルーズにとって、「グァタリの方法」の核心には、まず制度概念があった。


伝記上の時系列からいっても、グァタリは機械概念より前に、まず制度概念と格闘している。あるいは「分裂分析(schizo-analyse)」の語も、その前にこだわった「制度分析(analyse institutionnelle)」との関連にある。
あるいはここで、グァタリと出会う前のドゥルーズが、「本能と制度」というモチーフに取り組んでいたことを思い出してもよい(『哲学の教科書---ドゥルーズ初期 (河出文庫)』)。


ラボルドの用いる制度概念は、

この2つを同時に扱えるよう、あくまで臨床事業のために用意されたものだ。


國分氏は、ドゥルーズ=グァタリが次のような視座を提示したという(p.115):

 精神分析の批判的継承とマルクスを経由した政治経済学的視点が融合することによってはじめて現代に復活した真の政治哲学の視座

少なくともグァタリの側では、まずこれは《制度》概念とともにあった。
ドゥルーズは、そこに注目して序文を書いた。


私たちがいつの間にか巻き込まれ、従ってしまう《制度》を分析し、
逆にこれを触媒的に「使おう」とするのがラボルド病院の技法だが(参照)、
概念としての《制度》は、構造/機械の二概念を媒介するだけでなく、
ドゥルーズ/グァタリの関係においても、触媒的に働いたのではないだろうか。

    • グァタリが影響を受けたことを告白しているメルロ=ポンティにも*17、《制度化》という概念があるが参照、これは差異の一般性にも、実存の能動性にも還元されない。この意味での《制度化》は、ドゥルーズ=グァタリ的に反復される《機械》の時間に、重なって見える。*18
    • ブログ主が阪神・淡路大震災に被災したときの興奮は、本稿のタイトル「剥離による蘇生」に関係する。ライフラインの破綻は、私を生活世界から《剥離》した。私はそこで、「自分の肺で呼吸している」ような感覚を味わった(参照)。




*1:邦訳は『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』所収

*2:以下、引用部分での強調はすべてブログ主による。

*3:「機械と構造」が書かれた1969年時点で、すでに仏訳はあった(参照)。 【私は入手していませんが、69年以前の版で「Entgegenständlichung」がどう訳されているかをご存知のかた、ご教示いただけると助かります。】

*4:「資本家は時間の延長ではなく複雑な質的過程を強奪する。資本家は労働力ではなく生産の配備を左右する力を買うのである」(グァタリ『分子革命―欲望社会のミクロ分析 (叢書・ウニベルシタス)』, pp.55-56)

*5:いつも同じ一般的構図を確認するだけだから。

*6:國分氏の引用したグァタリの一節:《 現代の人間労働は、機械労働の残余たる部分集合に過ぎない。残余たる人間の振る舞いはもはや、機械の秩序からにじみ出る主体的な過程の付属的・部分的な過程でしかない。》

*7:《失敗した「注意深い再認」こそが潜在的なものを現動化し、新しさを生み出す》(國分氏、『思想 2013年 01月号 [雑誌]』p.87)――これは私には、失敗や破綻を契機に立ち上がる再分節の動き(私が《当事化》と呼びたいもの)に、重なって見える。失敗がなければ、私たちは自分をあらためて当事化する必要に迫られない。そこでの分節は、素材の編成を破綻からやり直す、新生の生産過程なのだ。

*8:《「明確化」と「創発」は同じ事態ではないだろうか》と論じた菅野盾樹氏と、重なる話のはず(参照)。

*9:ラボルド病院では、「あらかじめ固定された役割」や、「全体を統括するひとつのイベント」のような、単一的な支配の状況が嫌われる(参照)。

*10:《垂直性+水平性》を扱った、三脇康生精神科医ジャン・ウリの仕事――制度分析とは何か」(『思想 2007年 06月号 [雑誌]』p.53)に引用された訳より。【同箇所の書籍化された邦訳は『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』p.131】 同じ訳が、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.27 にある。

*11:「transversalité」をいきなり「横断性」と訳してしまっては、中心化する党派性から離脱する生成そのものとしての《剥離→分節》が、すっぽり抜け落ちてしまう。党派への固着を維持した「横断性」は、まさに「オルグ」でしかない。

*12:自覚的か否かを問わず、「唯一の大義」にもとづいた理論事業が、党派性を再生産する。國分氏の取り上げた、「《反復≒偽装》ゆえの抑圧」(p.108)は、ドゥルーズ的なスタイルで、党派性の問題をやり直したものとは言えまいか。

*13:「ものと人がそこにある状況と出来るだけ折り合いをつけている」(引用箇所のグァタリ)

*14:意識的にファルスに反対することは、党派性からの離脱を保証しない(むしろ意識的なアリバイ作りは、左翼党派の常套手段だ)。創発する超越は、剥離とともに「その都度やり直す」しかない。――ここに、たんなる構造の確認ではない、具体的な日付が生じる(國分pp.91-92)。

*15:分裂分析は、『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』では「機械状無意識の語用論(pragmatique de l'inconscient machinique)」と言い換えられ(邦訳p.187、原書p.190)、『千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)』に至っても、語用論(プラグマティック)が「分裂分析」と言い換えられている(邦訳〔上〕p.299、原書p.182)。ここで臨床実務は、語用論的な工夫と切り離せない。

*16:このグァタリの単著『精神分析と横断性―制度分析の試み (叢書・ウニベルシタス)』は、『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』と同年に公刊されている(1972年)。

*17:「私はメルロ=ポンティには非常に影響を受けていますね」(『政治から記号まで―思想の発生現場から』p.25)→【その音声ファイル

*18:メルロ=ポンティの制度論に取り組む廣瀬浩司の論考「機械は作動するか――ドゥルーズ/ガタリにおける機械の問題系」(『ドゥルーズ/ガタリの現在』pp.176-200)が、やはりグァタリの論考「機械と構造」を扱っている。