技法そのものを環境に実装できるか

問われているのは、私たちの 集団的な 《技法》 です。 そして、
主観性や関係でつまずく以上、「病人だけ考えればよい」というわけには、いきません。


たとえば「臨床」といっても、文字通り「床に臨む」ではなくて、職場や学校、家庭等の《日常》そのものがテーマになる。何かを意識すること、言葉づかい、社会的行為そのものが、「臨床上の」現場になる。つねにすでに、苦痛緩和や技法が問われています。*1
「めんどくさい」というなら、それが積もり積もって、環境は悪化するでしょう、むしろ少しずつ意識したほうが、お互いにラクになれる――それは間違いないのですが、それがなかなか出来ない。


これは、「飛びぬけた人だけが出来ても、うまくいかない」問題でもあります。
以下、作品づくりとその環境についての、竹熊健太郎氏のツイートより(参照):

関連して私は、当時 次のようにつぶやきました(参照)。



ひきこもり問題では、民間有志の支援者が大きな役割を果たしていますが、
「あの人だからできる…」と、ため息まじりに言われてしまうのです。
つまり、見事な技法であっても、「数万人に一人しかいないレベルの才能がなければ、できない」
というんでは、集団的な処方箋にはなりにくい。*2



そこでしみじみ思うのは、

「お金を媒介にする」という社会生活の技法がこれほど浸透したのは、
一つにはそれが、「誰にでもできるから」だと思うんですね。
難しい理論を知らなくても、「売る」「買う」はできる。


物質的生活の社会的生産、その新陳代謝について、本気で「どうマネジメントするか」と考えたら、ものすごく難しい。貨幣の価値(形態的な使用価値)というのも、厳密に考え出すと分からない。でも、「払う」という概念操作は、子どもでもできる。


それに対抗して、集団生活の制作過程を、技法からやり直そう。
――とはいえ、私たちの主観ですら、あんまり思い通りになりません。



関連して

造語だけが暴走してもダメですが、*3
語用論的な提案には、「誰にでもやれる」という重大な意義があります。


私はしばらく、「名詞ではなく動詞に照準しよう」を、テーマにします(参照)。 関連して、

    • 必要な技法は、いちいち原点から意識しなければならないのか?
    • 天才的な才能がなければ、良い技法は生きられないのか?

これらが、課題として問われると思います。



*1:逆にいうと私たちは、気づかぬうちに、ある技法を生きてしまっています。 「知ってはいないが、やっている」。

*2:斎藤環氏がマニュアル化の必要を言っていたのも、そういうことですね。

*3:むしろ、ある語用論的提案が招きよせた様式については、事後的に検証すべきなのだと思います。