問われているのは、私たちの 集団的な 《技法》 です。 そして、
主観性や関係でつまずく以上、「病人だけ考えればよい」というわけには、いきません。
たとえば「臨床」といっても、文字通り「床に臨む」ではなくて、職場や学校、家庭等の《日常》そのものがテーマになる。何かを意識すること、言葉づかい、社会的行為そのものが、「臨床上の」現場になる。つねにすでに、苦痛緩和や技法が問われています。*1
「めんどくさい」というなら、それが積もり積もって、環境は悪化するでしょう、むしろ少しずつ意識したほうが、お互いにラクになれる――それは間違いないのですが、それがなかなか出来ない。
これは、「飛びぬけた人だけが出来ても、うまくいかない」問題でもあります。
以下、作品づくりとその環境についての、竹熊健太郎氏のツイートより(参照):
[承前]その代わり、作品を産み出す側に身を寄せようと。あえていうなら「状況」に加担すること。可能なら、自分で「状況」を作り出して死にたいというのが私の願いであります。旧エヴァが面白かったのはまさに「状況」を作り出した作品であったからです。新劇版は旧作と「状況」がまるで違いますが、
[承前]これは要するに、クリエイターが本気で外部の干渉を廃して作品を世の中に届けたいと思うなら、自分で出版社と取次会社、または映画会社と配給会社を作って自分で売る以外に道はないということです。庵野監督はまさにそれをやり遂げようとしているわけで、私は固唾を呑んで見守ってます。
関連して私は、当時 次のようにつぶやきました(参照)。
「個人が社会化される」というのは、ある中間集団(業界など)に馴染むということで、それは「集団に内部化される」ことではあっても、公共的な強度を獲得することでは、必ずしもない。むしろ本当に誠実にやろうとしたら、逸脱行為になる。
2012-11-18 19:30:46 via web
党派性を突き抜けて――とはいうものの、さきほどの竹熊氏の議論では、「ジブリ」「庵野秀明」「ディズニー」と、歴史に名を残したお名前しか出てこなくて、しかもそれですら成否が分からないという…
2012-11-18 19:58:40 via web
ひきこもり問題では、民間有志の支援者が大きな役割を果たしていますが、
「あの人だからできる…」と、ため息まじりに言われてしまうのです。
つまり、見事な技法であっても、「数万人に一人しかいないレベルの才能がなければ、できない」
というんでは、集団的な処方箋にはなりにくい。*2
そこでしみじみ思うのは、
「お金を媒介にする」という社会生活の技法がこれほど浸透したのは、
一つにはそれが、「誰にでもできるから」だと思うんですね。
難しい理論を知らなくても、「売る」「買う」はできる。
物質的生活の社会的生産、その新陳代謝について、本気で「どうマネジメントするか」と考えたら、ものすごく難しい。貨幣の価値(形態的な使用価値)というのも、厳密に考え出すと分からない。でも、「払う」という概念操作は、子どもでもできる。
それに対抗して、集団生活の制作過程を、技法からやり直そう。
――とはいえ、私たちの主観ですら、あんまり思い通りになりません。
関連して
今日の講演会であらためて痛感したけど、「べてるの家」の活動の大きな部分を占めるのは、語用論的な提案にある。たとえば「幻聴」を「幻聴さん」と言い換えるだけで、単語が呼び寄せる言説の傾向、言葉の趣旨などが変わってしまう。
2012-11-23 01:10:58 via web
「理論を知らなくても変わってしまう」というのが重要。面白がって「幻聴さん」と言い始めると、変化が起こる。(「べてるの家」の評価にはもっとディテールが必要だけれど、変わるための活動として、「ことばの工夫」が重要なのだ)
2012-11-23 01:13:31 via web
造語だけが暴走してもダメですが、*3
語用論的な提案には、「誰にでもやれる」という重大な意義があります。
私はしばらく、「名詞ではなく動詞に照準しよう」を、テーマにします(参照)。 関連して、
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- 必要な技法は、いちいち原点から意識しなければならないのか?
- 天才的な才能がなければ、良い技法は生きられないのか?
これらが、課題として問われると思います。