ツイッターでのやり取りですが、singularité(特異性)という20世紀フランス思想の概念について、以下のような問いが出されていました【参照1】【参照2】。 部分的な要約と引用をしてみます:
そこで私は、《問いや問題意識の設計図に、すでに立場や方針が表れている》 という点にも注意したいです。 実はすでに、singularité をめぐる《考察》そのものに、singulier な分岐は生じてしまう。
私が必要だと思う《説明》は、ある偏りを持つがゆえに、他の皆さんにとっては必要ではない。また、ラカンの言葉づかいでそれを「説明」されても、同じことだと思います。 singularité という語は、その分岐の場所に立っている標識のようなもの。
私は最近、かなりの時間とエネルギーを割いて、自分の問題意識を《説明する》努力をしたのですが(参照)、これはその説明相手に対しては、ほぼ無意味でした。とはいえ相手側に、わかりやすい悪意があったわけではありません。
相手のしている議論も私には無意味だったのですが、――私はここで、相対主義は採りません。私の議論こそが、《必要な方針》を体現するものであり、相手側の説明方針には、部分的な意義しかありません。
つまり焦点は、単なる相対性や個別性ではなくて、《特異化してゆくような、本当に必要な議論こそが通じない、市民権を得られない》ということ。本当に大切な分析は、単独的・特異的に生成するゆえに、議論の趣旨が伝わらないのです。大事な話になればなるほど、singulier になる。
これは、党派性をめぐる問いでもあります。たんに科学や論理に還元できればよいのですが、そうはならない。
《なぜ singularité という論点が必要なのか、それはマジメに受け取るべきなのか?》――そこから苦しんでいるはず。 科学や論理に還元する立場を採るかぎり、フランス思想の singularité 概念は、要らないでしょう。(ソーカル的にも)
たとえば東浩紀氏はこのあたりを、「複数の超越論性」という言葉で表したことがあります(参照)。 この論考はデリダ論ですが、「複数の超越論性」を論じた箇所では、ラカンとグァタリが挙がっていた。
グァタリがラカンを評した、「過度に抽象的でありつつ、また同時に、じゅうぶんに抽象的でない」(大意)というのは、なんだか意味が分かりません。ところがこれは、ラボルドの制度分析や「メタモデル化」の趣旨を経由すると、切実な話として浮かび上がってきます。
- 「過度に抽象的である」とは、具体的ディテールを見ない、形骸化した理解枠を当てはめる態度のことでしょう。(マテームとか)
- また「じゅうぶんに抽象的でない」とは、そのつどその場で生成する、葛藤を帯びた分析を許さず、そのまま放置されている、ということです。分析事業が、対象の編成に編みこまれていない。
こう考えれば、これはラカン派だけに限った話ではありません。たんに「科学」「論理」を標榜する態度にも言えます。 逆に言うと singularité は、必要な話をすると必然的に出てきてしまう特質なのです。
抽象的であるということに、一元的な還元はない。「こう考えれば適切に抽象的である」という決まったパターンがない。グァタリは、分析の座標そのものを、そのつどやり直す話をしています。
東浩紀氏の議論において、「超越論性が複数である」というのは外在的な指摘ですが(時間的・空間的にバラバラなのを外部から語る)、――グァタリの議論では、複数性は内在的に生きるしかありません。
《複数性を語る議論そのものは、単一的な超越の地位にある》――これが東浩紀氏の語りです。あるいは東氏のこだわる確率性も、経験が確率的であることそのものは、確率的ではない。*1
《複数の超越論性》というテーゼは、複数性を言いつつも、それを論じるご自分の語りだけには超越的な評価を要求する、という振る舞いであり、――これは東浩紀氏の承認要求そのものと重なります。(ご自分が「複数のうちの相対的な一項に過ぎない」という扱いを受けることを、許さない。)
私は、これをたんに批判して終わることはできません。――《そのつどの必然性に従うがゆえに複数的になった語り》は、本当に通じないから。
たんに多様性や特異性を賞賛するのは、単独的に「なってしまう」深刻さを理解しない、PC 的イデオロギーにすぎません。あるいはグァタリに頼る語りの多くは、たんに権威主義的です。*2
結局それなりに「通じる」のは、そのつどの必然性をあきらめた、順応主義的な言説でしかないのかもしれない。あるいは、「複数の超越論性を肯定する、超越的な言説」をやって、超越性の共有において、連帯を維持するしかないのかもしれない。
そういう方針でうまく行っていない身としては、このまんまというわけにはいきません。まさに、内在的にやり直す必要を抱えています。
これは思想研究の論点というより、生活者の論点です。たんに研究を諦めることもできなくて、複数性を生きるための、新しい技法開発が要ります。
これはそのまま、《当事化》の話
《当事化》と動詞形で語りたいのは、そのつど生きられる singularisation(分析の特異化)をこそ、このモチーフの主題にしたいからです*3。つまりこれは、マイノリティを名詞形の「当事者」で囲うのとは、違う切り口。弱者でなくても、自分のいる場所で singulier な分析を生きてほしい。
ドゥルーズやグァタリの提案した内在性は、名詞形で「当事者」と名指される人たちだけの特権ではないでしょう。むしろ、誰もが生きる分析の命運にかかわることだと思います。
分析は、たんに複数であれば良いのではなくて(そんな自意識に特異性は生じない)、そのつどの、やむにやまれぬ必然をもって生じてしまう*4。 たんに「特異」「バラバラ」を言祝いでいるのではないし、
実体的・名詞的に singulier なのではなくて、
特異性は動詞的に生きられる
ことにも注意。
外部から言われるだけの「多様性」は、多様でもなんでもないし、複数性を外部から指摘して終わることは、必ずしもみずからが複数性を生きることになりません。たいていは、相手を実体化して褒めて終わりです。*5
たんに相手の同一性信仰(被害者ポジションやナショナリズムなど)に加担することは、多数性の受容ではないでしょう。そして、本当に特異的に生じた分析は、心理的には抵抗を引き起こしがちです。
【2013年3月25日 追記】
「ていねいに説明すれば、理解される」という幻想は、深く深く根付いてしまっている。――それぞれの学問は、むしろ問題を無視する態度の培養槽になる。
《singularité 特異性》 は、
- (1)どうすれば適切に特異化できるか の問いであると同時に、
- (2)特異化の必要は、たんに孤立のリスクでしかない。そういうリスクがあっても、特異化しないわけには行かない。
ドゥルーズやグァタリの「マイナー」概念、あるいはラカン派の「サントーム」概念では、(1)は論じても、(2)の深刻さを論じていないのでは。
社会のフォーマットとして、問題意識がここまで幼稚な状態にある以上、「特異化すればよい」とはならない。(「昔は成熟していたが今は違う」ではなくて、ずっと幼稚なままだろう)
孤立のリスクまで織り込んだ上での特異化――そこまでのことができるかどうか。それは、環境醸成の仕事でもある。