ひとまず、途方に暮れることで出発点に立つしかない。

左翼リベラルの醜態は、「向こう岸」ではないわけで。
左派の酷さは、立場の弱い人を直撃します。


名詞形《当事者》概念の周辺は、唖然とするほど悲惨です。
その言葉を当たり前のように使う人たちの問題意識を変える必要があるものの、簡単な説得法などありません。


既存の社会保障は、カテゴリごとに差別的に設定されてもいるので、「問題の多い名詞形」とともにその差別も撤廃したら、保障や援助を受けにくいという問題もあります。
「当事者」「ひきこもり」等々、意味ありげな名詞形で別格扱いを受けることに成功した人たちは、いいご身分でもあるわけで、そこに居直ろうとする人も出てきます。*1

さらに実務的な問題として

当事者概念の界隈にいる人の多くは、冗談抜きに本当に能力が低い。――そもそも、「能力を高めざるを得ない」という課題設定を免除されている。
またそれゆえ、何をやっても蓄積型のキャリアにならない。いつまでたっても、「当事者としての思いを語る」か、あるいはせいぜい、党派的イデオロギーへの貢献をカウントされるに過ぎない。→いわゆる《当事者研究》もこの内部にいる。*2


当事者崇拝の枠組みそのものを考え直す作業は、《仕事》と見做されない。そうした問題意識での試行錯誤は、《仕事》として評価されるフィールドを持たない。→このフィールドを創れるか。あるいは既存のフィールド内に、そうした問題意識を根付かせることが出来るか。


つまり、既存の党派言説そのものに対する当事者的な試行錯誤を、《仕事》としてカウントできる状況を作り出せるか。今は当事者意識そのものへの評価がないゆえに、

 《当事者意識に目覚めること》≒ 党派の離脱

でしかあり得なくなっている。



*1:「差別反対」を活動の口実にする人も、動詞的な問題意識を基調にされては、「名詞形で囲い込んだ誰かを守る」というイデオロギー的な自己正当化が出来なくなるので、全体主義者特有の恩恵を受けられなくなる。だから、動詞的な問題意識で原理的に差別をなくそうとするのではなく、「名詞形による差別を温存したままで、それを口実に相手を脅す」というやり口をとる。

*2:「当事者」という肩書に監禁されたまま。それは実は、自分の乗っかっている党派的言説に対する当事者意識を全く持てない状態となっている。