技術革新と、「アート&デザイン」

2011年3月19日の浅田彰氏の発言より京都造形芸術大学 卒業式での式辞)

http://www.youtube.com/watch?v=LpPBN5znT2A#t=18m54s

 たしかにいま日本は、非常な困難に直面しています。 (略) しかしここで率直に認めなければいけない。まず、いま喫急に被災者の人たちを助けるときに芸術に何ができるか。 「とりあえずは何もできない」というべきです。というより、そもそも芸術というものは、人々の心の飢え、精神の欲求を満たすということが役割なのであって、今はそれ以前に、まず衣食住その他の物質的な環境をきちっと、最低限のところまで担保することが急がれている。そのあいだ、芸術に何ができないからと言って、別におたおたすることはない。被害に遭わなかった者はまずは、いつも通り冷静に、ふつうに生活や仕事を続け、そして文学や芸術を育み続けるということが最大の任務なのであって、そのようにして蓄えた余裕でもって、必要な時に、必要としている人々に助けを差し伸べることもまたできるのだと思います。
 と同時に、そのように短期的には芸術には何もできないとしても、むしろ長期的に考えてみると、芸術、あるいは広く芸術文化というものの持っている意味は非常に大きい。というのも、この震災とそれに伴うさまざまな危機というのは、明らかに――すでに本学がずっと訴えてきたような――「文明の転換の必要」というものを、自然の側からさらに強く強調してくれるような、そういう出来事だったというべきだからです。
 20世紀までの近代文明というのは、自然を、また他者を、とことん対象化し、開発し、場合によっては搾取して、大量生産・大量消費・大量廃棄という道をとめどなく突き進んできた。たとえば原子力発電所その他を作って莫大なエネルギーと物質を生産し、それを全国規模で、さらには世界規模で distribute する(流通させる)。 で、大量に消費しては大量に使い捨ててきた。そうやってどんどんガムシャラに進んできた、ということがあるわけです。それが、確かに予見できないほどの自然の災害であったにせよ、そのような災害に逢着した時に、文明の側も、非常に脆弱な点を露わにしてしまった、というのが、いまの状態なのではないか。そうすると、いま求められているのは、もちろん緊急の物質的な復興ということはありますが、長期的にいえば、20世紀までのような、自然や他者を一方的に対象化し、開発し、搾取するような、そういう精神文化全体をつくり替え、組み替えていくこと。それから、大量のエネルギーや物質を巨大なインフラストラクチャーでもって生産し、distribute し、消費し、廃棄していくような、そういう形の文明を作り替えて、できれば自律分散的なネットワークの中で、人々が物質的のみならず精神的な豊かさを享受しながら、豊かに暮らしていけるような社会を創っていく。そのようにして精神文化を、あるいは社会システム全体を組み替えなければいけないという時に、実は芸術文化(アート&デザイン)こそが、その中でいちばん重要な役割を果たすと言えるのではないか。
 もとより、そのような自然や他者に対する一方的な開発・搾取・利用は「よくない」、「地球にやさしく」「他者にやさしく」、そのような新しい文化を作らなければいけない、ということはあります。しかし、それを倫理的な必要として説くだけではダメだ。むしろそのような、自然や他者とうまく調和しながらやっていけるような、自律分散ネットワークに基づいたおだやかな暮らしというものが、《美しい暮らしなんだ》――これがスタイルとして、とてもカッコイイ暮らしなのだというふうに人が思ったときに初めて、精神文化が、さらに社会システム全体が、そちらの方向に向いていくのではないかと思うのですね。

芸大を卒業する学生へのはなむけというバイアスはあるが、以下の堀江氏に比べ、理念性が前面に出たデザイン論になっている。 しかし、巨大地震に遭ったのは日本(と幾つかの国)だけなので、「ほかの国にそんな再編成の動機づけはあるのか?」という疑念は残る*1

参照:田中康夫と浅田彰の憂国呆談2 (39)(震災から二ヵ月後の対談)



2011年5月12日、堀江貴文氏: 「結局、世の中を変えるのは技術革新しかない

 海外に行くと、日本人って貧しくなったと痛感しますよね。だって、シンガポールに行ったら、メチャクチャ活気があるじゃないですか。例えばセントーサ島に新しいカジノができたり、京都吉兆の料理長の徳岡邦夫さんプロデュースの『Kunio Tokuoka』というお店は、5万円のコース料理を普通に出している。新しいホテルがバンバン立って、シンガポールの市街地ではF1グランプリが毎年開されています。 (略) でも、日本に帰ってきたら、カジノもないし、活気もない。しょぼくれている。みんな焼き肉に行って、200円のユッケを食ってる。終ってるよね、みたいな。

 明治維新だって革命と言えないかもしれない。司法にしても、西洋から法体系や裁判所のシステムを導入したけれど、江戸時代の“お白州”の上に制度が乗っているだけ。体裁は変ったけれど実際は何も変わっていない。 (略) それだけ長い歴史があると、歴史を守る事が凄く大事に思われて来るんです。 (略) とにかく長続きする会社が一番良い会社だと思い込んでいる。 (略) 提言をした所で、宗教みたいなもので、考え方は変らないと思うんですよ。 「なぜこいつは分からないんだろう……」って向こうも思ってる。

 よく考えたら、自分はなぜこれまで定住してたんだろうって、最近よく思っています。これだけインターネットが発達した世の中で、なぜ日本にいるんだろうって。

 結局、世の中を変えるのは技術革新しかないと思っています。インターネットの登場が世の中を少しでも変えた訳じゃないですか。そして、それが大きなウェーブになりつつある。何か新しい技術を作れれば、もっと変るかもしれない。社会システムそのものだって変っていくかもしれない。

 日本の国立大学は、教授が一般教養の授業をしなければならない。 (略) そんなのアホらしい話で、助手や専門の講師にやらせればいい。 たとえば京都大学山中伸弥教授みたいな人までもがそういう授業をやっている。それどころか試験監督や採点までもね。バカですよね、はっきり言って。そもそも、大学の教養課程なんて、誰も行っていなくて、ろくに勉強もしていない。 (略) 学歴に関係ない人が集まれるようにすると、大きく変わる気がする。資金も僕はネットを経由で趣旨に賛同してもらって、集めたいんです。

堀江氏にとっては、消費文化の貪欲な追求は自明で、
それを妨げる要因をどう取り除くかが問われている。
技術は国境を超えるし、「理念や説得は無駄」という諦念(リアリズム)がある。



2年前、画家・永瀬恭一氏から頂いたメールより

美術の実作者が追い込まれる状況について。
http://d.hatena.ne.jp/nagase001/20090526/p2

 私たち美術に関わるものの世界では、「作家は黙って良い作品を作れ」というイデオロギーがあります。作り手が、作品批評なり美術史に意識的な発言や分析なりをすると、決まってこういう言説が現れ、一方的に怒られたり軽蔑されたりします。
 ここでは何が「良い作品」なのかが問われない。正確にはその権限(権力)は美術批評家なり美術館学芸員なり画廊なりが握っていて、無力で盲目な作家がむやみに作った作品を一方的にジャッジするんですね。その方が作家は「純粋」ということになります――そして勿論、もの言う(分析する)作家は「不純」と言われる。
 この抑圧は生理的なまでに美術業界の構成員に内面化されています。私でも未だにあれこれ考えたことを明らかにする美術家は“汚い”のではないか、という自己嫌悪を捨てきれません。しかし、あたりまえですが「良い」「悪い」の判断が最も必要なのは現場の作家です。そして、その判断の為には先行する、あるいは同時代の作品の分析が欠かせないし、それらの作品が作られ評価された文脈の検討も必要になる。
 結果、賢い作家は黙って(目につかないところで)こっそりとそれをやるし、哀れで純真な作家は本当に盲目に、なんの羅針盤も持たず製作して99%が人生を棒にふって残り1%の宝くじに当たった作家が適宜美術業界のモードに乗ってファッショナブルに消費され数年で忘れられます。



ならば浅田彰氏の提言は、次のような意味になる:

自分を消費させるために創造するのではなく、
そうやって自分を消費しようとしてくる社会そのものを再デザインしてみろよ、
今はそれこそが求められているんだよ!



「批評家らの思惑通りに “純粋” でなければ、汚れているとされる」という永瀬氏の証言は、ひきこもり関連にも言える。社会復帰しようとするなら、親御さんや支援者の思惑通り、「従順な子ども」を演じなければ、努力していると見なされない。 そういう発想にこそ「組み替え」が必要なのに、いざ積極的な疑念をもつと、孤立してしまう。

疑念とは社会的であり政治的であることを思えば、この孤立には仕方のない面があるが(そこでこそ踏ん張るべき)、どうやら日本は、こうした疑念をつぶす独特のスタイルを持つらしい。曲がりなりに社会参加を続けるには、既得権者に「お前は純粋だ」と見てもらわねばならない*2


ひきこもり続けることは、自分だけが純粋さを保つという意味で極めて順応主義的であり*3、それを家族が「我慢強く」支えることは、内発的革命の起きない日本のメンタリティそのものといえる。変化が生じるには、黒船/敗戦/災害がなければどうにもならなかった、というのも、ひきこもる家庭のエピソードとして反復される。


例えばインターネットは、夜郎自大な消費者をやるには最適だが、その消費シーンを提供する側の環境を、かえって過酷にしているかもしれない*4。 新しい技術環境は、古い消費動向を固着させるだけで、そこに新しい働き方を見いだせる人は、ごく一部に見える*5



最もドメスティックなものについてこそ、技術革新と「アート&デザイン」が要る。

主観性と、身近な関係性について、
「隠蔽しおおせた奴の勝ち」という欺瞞のゲームをどうなくすか*6
遠回りに見えても、それを目指すしかないように思う。



*1:「出し抜いた奴が勝ち」で終わるのではないか。 こちらが競争を降りても、相手は下りないかもしれないし、パワーゲームは資本主義だけの問題ではない。 (原発にかぎれば、世界中で再検証されているようだけれど)

*2:身分保障のある形で「純粋な仲間」と見なされるのは、20歳前後の新卒者でしかないから、実はもう努力のしようがない。あとは「純粋な消費財」になれるかどうか。

*3:社会的には逸脱しているが、努力方針そのものは保守的。 「どういう方針で純粋さを目指しているか」こそが問われねばならない。

*4:労働過程は、新しい技術が設計する。そこではシステムこそが主体であって、自分を切り売りする個人は消費財であり、生身の側に創造の時間はない。 むしろシステムそのものにこそ、消費と創造の場面がある。 【cf. 「制度における、制度による、制度に対する」働きかけが生起する領野としての《制度のビオス》(廣瀬浩司後期フーコー 権力から主体へ』p.212)】

*5:能力の低い大多数は、「支配しているつもりの消費者」として振り回されて終わる。

*6:ウィキリークス」を、この文脈で捉えられないだろうか。