教科書――臨床の課題として(メモ)
さいきん『社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)』を公刊された、稲葉振一郎氏のブログより(参照):
入門書は、たとえ教室において教科書として用いられようとも、それ自体単独で、読者が自力で通読できるしまた通読したくなるようにかかれていなければならない。そのためにはひとりの著者によって一貫した構想の下、統一された文体で、ひとつのリズムに乗って書かれなければならないのだ。
しかし本当のところは大学院レベルでも、ハンドブックだけではなく通読されるべき教科書が必要であり、そのような教科書は原則的には単著でなければならないのだ。
ひきこもりに関連して言えば、
入門と継続を、《臨床》のもんだいとして語らねばならない。
「語る対象についてのメタ言説」ばかりがあって、「語っているあなたのプロセスはどうなんですか」という話を、誰もしていない*1。 そして、その話をすると、たいていの人は怒り出すか逃げ出してしまう。
アカデミシャンは、「語る対象」のことばかり厳密化しようとするし、「語る自分」のことは、すぐに人生論に変えてしまう*2。 「語る自分」のプロセスを、臨床や教育の唯物論として、主題化する必要がある。 そうでないと、問題となっている苦痛事情を扱えない。
入門の語り手にどうしても必要なのは、「入門後」と「入門前」の《境界》で、自分の生々しいプロセスを見せてみることだと思う*3。 「門の内側にふんぞり返って手招きする」というのは、違う気がする*4。 とはいえ、決定的な魅力を放つ何かが “内側” になければ、そもそも《境界》じたいがそっぽを向かれる・・・。