《臨床》という言葉の周辺(メモ)

エスノメソドロジーという事業そのものを、臨床活動と理解することはできないでしょうか」という私の質問(参照)は、とても強引な言葉づかいをしています。

contractio さん: 「臨床」という言葉を使いたいと望み かつ 恐れなく使えるひとの考えが、わたしは知りたいです。 (略) 90年代半ば過ぎくらいからでしょうか、「臨床」ということばを、医者以外の人が使うようになってきたことは知っていて、そうした文献を多少は読みました。が、「ぜひともこの言葉を使わねばならない理由」というのが、私には結局さっぱりわかりませんでした。 (略) 「臨床」という語に「治療」という含意があるなら、それを医療従事者以外の人が使うのは、かなり大それたことであるような気はします。



《臨床》という語を、医療とは別のものとつなげたタイトルとしては、《臨床哲学》、《臨床美学*1、《臨床法学*2、そして《臨床社会学》など、いくつかが見つかり、臨床論としてよく言及される中村雄二郎臨床の知とは何か (岩波新書)』(1992年)*3では、学問という常連客に置き去りにされた主人公を《現実》とし、「近代科学が無視し、軽視し、果ては見えなくしてしまった現実、リアリティとはいったいなんであろうか」と問われています(p.27)。 それぞれで趣旨は違うでしょうし、細かいことはまだ何も言えませんが、


私が《臨床》という言葉を使ったのは、次のような趣旨です。

 既存の方法論が、何か尊重しなければならない現実を無視しており、その黙殺が私たちを苦しめているので、方法論レベルでの工夫によって、その現実に取り組み直そう。それによって、私たちの苦しさを和らげよう。

エスノメソドロジー(EM)を理解しようと努める中で、それが私の必要とする《現実への尊重》に近いかもしれない、と感じたことから*4上記の質問を試みたのですが、では私はEMの何に臨床性を見たのか、そもそも私が考えたがっている臨床性はどういうものか*5――整理し直す必要を感じています。(質問の前に徹底すべきことですね…)

以下はひとまずのメモにすぎませんが、私が質問のときに考えていたことを、自分に向けても説明し直してみたものです。




《治療》という言葉は、不登校/ひきこもりの領域ではトラウマ・ワードになっている。

    • とはいえ「社会参加ができない状態」には、統合失調症うつ病など、《病人役割⇒治療》範疇で対応すべきケースもあり、鑑別診断が必要。 その意味で、医療枠の役割は残る*8。――それは前提なのだが、《治療》という概念自体をカッコに入れたうえで、「よりよい処遇や関係性」を考えようとしている。 医療目線には扱えない、というより、「医療目線が強化してしまう苦痛の機序がある」という固執。(EMのいう「人々の方法」と、「苦痛の機序」が重なる。)


苦痛緩和のために、現実への取り組み方を変えようとしている。

    • 生きられている現実を、上から矯正するというより、内側から組み替えてしまうような作業が要る。 そこで、「社会的事実の客観的リアリティは根本的現象である」とし*9人々における現実の生きられかたを主題化しているEMを参照できないか。 《人々の方法=現実》として、その秩序化や組み換えが問題になっているように見える。
    • 《福祉》という言葉では、直接的受容や再分配以上の、能動的な取り組み趣旨を話題にしにくい。
    • 《当事者》というカテゴリーは、ただ全面肯定するものではなく、そこを素材にして再検証する場所のようなもの。 「伝達する身体」*10は、閉鎖的保護の対象ではなく、外部に開かれた傷口のようなメディアであり、その当時なにが生きられたかを分節する「リマインダ」となる。 ⇒自分という身体で本人が行なう分節作業は、本人自身にとって必須の倫理的作業になる。 「あとになって気付かれる、そのとき生きられていた現実の秩序」


「みずからがうまく構成されない」という、秩序化プロセスの困難(参照

    • 「事業のプロセス」と「人格のプロセス」は、秩序として切り離せない(同時に主題化するしかない)*11
    • 自分で自分をリマインダにすることが含み得る政治性*12や、ていねいな分節作業のみがもち得る苦痛緩和の意義が、本来の臨床領域でうまく論じられていない。 「本人の行なう言説作業」の政治性が、支援者や研究者の言説に拮抗するため、忌避され排除されている(そういう面を否定できない)。
    • アカデミックな論者は、ご自分の言説の内容ばかり考えるが、実践としての《言葉のプロセス》は、それ自体が臨床上の主題になるべき*13。 「精神は、環境に埋め込まれた秩序化のプロセスである」という理解。 ▼EMは、人々の「内容」よりも秩序の実現を主題化している。
    • 実際の対人臨床が、「メタ言説」と「現場の言説」に解離している。 現場そのものを内側から、メタに逃げずに記述する言葉がない。 ⇒この問題意識は、(モデルにもとづく既存の社会学に対する)エスノメソドロジーの問題意識にリンクして見える。


苦痛緩和の事業は、状況に埋め込まれている。

    • 人々の悩み方やアプローチの態勢が、苦痛の構成要素となっている。 そこで、「人々の方法」を記述するEMが有益でないかどうか。(そこで「研究」は、介入の手続きになる。)
    • 人間は、お互いがお互いの環境になっている(「客観的背景があって中に人間がいる」のではない)。 治療やカウンセリングでは、《健全⇒異常》という一方的な構図だが、この関係構図(人々の方法)じたいが苦痛を生む。
    • 《メタ/対象》という視線秩序を固定することが苦痛のメカニズムなのに、臨床でも、研究事業でも、ほとんど主題化されていない。(このことは、研究者じしんの精神衛生問題にかかわる。メタに収奪されるだけの言説は、秩序化のあり方として非常にまずい。)
    • 本人の「悩み方」が、秩序化の方針になっている。 ⇒それを記述して変化させることが、苦痛緩和の重要なテーマになる。


事業を名指す言葉に応じて、「人々の方法」が固定されている。

    • 《支援》はたいてい、支援者の固定的な(イデオロギー的な)現実による包摂と支配を意味する(参照)。 それは包摂ではあっても、本人の言葉のプロセスを尊重する態勢ではない。 ▼「存在」を肯定されることで「言葉」が否定されるというこのあり方(参照)は、事実上の差別構造になっている。
    • 《就労支援》や《労働環境論》は必要だが、そう名指した瞬間に、考えるべき課題の視野が狭まる。 ▼「景気が良くなればすべてオッケー」ではない。景気が良くなっても、「人々の方法」は残っている。
    • 単に「連帯せよ!」は無理。 そこでは、いつのまにか人々の《つながりの方法》が生きられてしまう。 ⇒《ふれあい》とかイデオロギーではなく、そのつどお互いをリマインダにする分析努力をこそ、関係に埋め込みたい。 つまりある意味で、EMを必須の作法にすること。 (「どういうスタイルで、どういう現実を尊重するか」は、関係性の作法そのものだ)





たとえば引きこもりでは、「専門書を勉強すればするほど状態が悪化する」というジレンマがあるのですが(参照)、これなどは、専門概念と日常意識との関係を問題にする《ループ効果》にとって、重大なトピックの一つにならないでしょうか。 そしてそれは、医療行為とは別の方法論を必要とする、《臨床》と呼ぶしかないテーマ設定のように思います。



*1:「臨床とは、自分が行なう医学や芸術も含めたあらゆる実践的行為が、いかなる意味をもち得るかを考察していく批評的かつ創造的作業なのである」(リンク先サイトの管理人・井上リサによる「臨床美学はいかにして誕生するのか」、『practica〈2〉アート×セラピー潮流 (プラクティカ (2))』p.172より。強調は引用者

*2:「見習うのではなく、法曹のあり方を自ら批判し改革すること」(リンク先より)

*3:中村氏が既存の領域を参照しつつ《臨床の知》を言いだしたのは、1983年だそうです(p.80)。

*4:直接には、精神科医療を主題にした《制度を使った精神療法》の方法論を思い浮かべていました。

*5:《苦痛緩和のために尊重すべき現実》は、多くの場合、固定的実体(背景に隠れている何か)のように思われています。 しかし、その思い込み自体が私たちの意識を硬直させる。 ▼「どういう現実をどのように尊重すべきか」は、非常に対立を生みやすいイシューです。つまり、臨床性があるとともに、政治性がある。

*6:思春期挫折症候群―現代の国民病 (1983年)』などを参照

*7:稲村博氏の直接の教え子に当たる斎藤環氏は、《治療》という言葉を使い続けていますが、それじたいが強く論争的であり、自覚的に択び取られた態度です。

*8:診断と治療(医業)は医師の独占業務であり、医師免許をもつ者以外がおこなうと違法行為になります。昨今の精神科《治療》で中心になる「薬の処方」は、医師にしかできません。

*9:エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』p.189

*10:概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』p.60

*11:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』の中心テーマの一つ。 「病院環境を治療する」という言葉遣いなど。

*12:実情の分節による、関係改編への着手

*13:「実践の参加者たちにとっての実践的な課題」(『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』はじめに)