「反省なき文化強制」

フランツ・ファノンのいう「反省なき文化強制 imposition culturelle irréfléchie (unreflected imposition of a culture)」(参照)という問題意識は、まさに制度分析の話ではないだろうか。 そう読むのでなければ、「他者の文化を尊重しましょう」みたいな、文化相対主義的なナショナリズムになってしまう。
日本の「当事者主義」は、ほとんど全てが文化ナショナリズムでしかない。たいていの左翼は、「相手側の右翼」を肯定するだけの差別主義者だ。――私自身が、そういうものに加担してきてしまった。
マイノリティ自身が、「反省なき文化強制」を行なっていないか。 「マイノリティの文化」を絶対化することは、「反省なき強制」になる。 たとえば引きこもる人は、家族に「反省なき文化強制」をしている。
必要なのは、相対主義的・博物学的な並立や温存ではなく、制度分析の協働作業であり、関係性の組み換えと生きなおしだ。 今の引きこもり支援は、「ナルシシズムの併存」以外の方法論を持ち合わせていない。 それは、PC的な規範論しか口にできない思想状況とリンクしている。



【2009-06-10追記】

ここでの私は、「文化的強制を回避するためには、制度分析がどうしても必要だ」という話をしているのだが、文化強制と制度分析の関係は、もう少しフクザツというか、難しい厚みをもつ。以下、そのメモ。

    • ヘーゲルサルトルを参照しつつ「即自と対自」などと言っても、今は再帰的反省そのものが強迫的なので、ベタに「対自」などと言えない。むしろ対自が即自的に固着している。対自という形式的な枠組じたいが、切れば血の出る身体的な作動だ。ここでメルロ=ポンティサルトル批判を参照できるが、重要なのは「肉」という静態的関係性ではなく、それが内在的な分節の重労働を含むこと。「反省réfléchir」が必要だとしても、結果的構造としての対自が必要なのではなく(それだけなら底の抜けた再帰性と区別がつかない)、自分がはまり込んだ身体的固着を、日常の内側から分節することだ。(しかも、生産物としての結果的な認識は、メタに固定されるわけではない。日常から始まる営みであり、最後まで日常から抜け出ない。非日常性はプロセスそのものとして実現される。)
    • 形式的自意識をカルト的に維持する者はたくさんいるが、労働過程としての分節を支える者はほとんど一人もいない。静態的形式としての対自ではなく(それは自意識でしかない)、内在的な分節労働としての対自を考えなければ、マッチポンプ的な討論がえんえんと続いていく(議論の生産態勢じたいが、苦痛の生産構造なのだ)。文化強制への抵抗として「制度分析」が必要なのは、分節の労働過程としてであって、わかりやすい政治イデオロギーはむしろ文化強制でしかない。ベタな反抗は、反省なきナルシシズムでしかない。
    • 「自意識の臨床」では、対自的逸脱から即自的合流に向かわせる作法が問題になる。斎藤環は「オタク」、宮台真司は「右翼」。また多くの支援者たちは、農作業などで「自然との一体感」や「ふれあい」を目指し、それぞれが一定の成功事例をもつ。あふれる笑顔。*1――いずれにおいても、対象との関係がベタな嗜癖に陥ることが目指されており、それが自動的にコミュニティ(つながり方)の作法になっている。嗜癖的な関係性が、「なんとなくそれでつながろうよ」というナルシシズムで押し付けられる(なんという暴力か)。 それぞれのコミュニティや性愛で成功した者たちが、《つながり》の成功事例として自分を押しつけ、そこで固定されたつながりの作法が、自己管理の方法を遡及的に決めつける。
    • いずれも、《内在的分節への没頭》というプロセスの契機を無視している。自意識的逸脱から即自的合流への移行を「意味から強度へ」と表現することがあるが(ドゥルーズ/ガタリの議論とされている)、それは分節過程そのものの強度としてのみ強調価値があるのであって、相対主義的な「嗜癖の強度」でしかないなら、どうにもならない。80年代以降、日本でなされたフランス現代思想の受容は、ここのところをどうやら決定的に間違ってきたらしい。私が今になってドゥルーズガタリに興味を向けているのは、この点においてでしかない。▼私はこの着眼を、三脇康生氏の仕事*2を通じて学んだ。私なりに氏やラボルド病院の方法論には疑問が残るが*3、《分節過程そのものの中心化》という臨床的・政治的なモチーフは、彼らの仕事を通じてしか自覚できなかった。私はここに、《当事者》という仕事の焦点を読み取っている。
    • 文化的強制は、単にリバタリアンになれば回避できるのではなく、リバタリアンであることが強制している文化がある。しかしそれをベタに指摘するより、「環境管理」を語って終わらせるほうが、効率的にメタポジションのナルシシズムに浸れる。
    • 「何を言っても、ローカルな利害しかない」とすれば、その発言自体も、ローカルな利害を口にしたにすぎない。東浩紀宮台真司斎藤環らの議論は、そうした現実を踏まえたうえで、「メタでありたい」という下世話な心性に訴えている。つまり、最初から自己矛盾的な、よじれた支持のされ方をしている*4その解離的な振る舞いは、彼らじしんが維持する人間関係に表わされる。 彼らは、ご自分が営む関係性について、単にベタにそのパターンを押し付けるだけで、生きられたつながりのロジックを対象化できない。(たとえば “フレンドリーな” 若者言葉は、「お互いの関係性に対する分析」への拒絶としても機能する。) ▼いまの知識人言説は、形式的規範やメタ認識の空中戦であり、それを論じているご自分じしんの身体的・日常的プロセスを徹底的に無視している。だから解離的であり、上から目線の抑圧になる。
    • 文化的強制を忌避するために制度分析が必要とはいえ、信仰や嗜癖権威主義全体主義を生きたい人にとっては、制度分析それ自体が文化的強制であり得る。「今のあなたのあり方をなんとかしてくれ」というその要請自体が、相対主義に溶かしこまれる。――規範理論における契約の前景化は、強制力の正当化にかかわっている。▼既存の制度分析論は、交渉を活性化させ、契約を再問題化しているにもかかわらず、集団的意思決定の手続き論を欠いている。そもそも、お互いが「制度分析」の名のもとに何かを主張している場合、どちらの意見を通すのか。




*1:単なる嗜癖や感染の推奨は、「洗脳されなさい」と言っているにすぎない。これでは、オウム真理教的な(ケミカルな)耽溺の推奨と区別がつかない。

*2:精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』所収、「精神医療の再政治化のために」p.131-217

*3:とりわけ、政治性の核である「集合的な意思決定」の問題。つまり、まさに「文化的強制」をめぐる問題だ。

*4:「何を言っても、どうせ誰も聞いていない」という状況を指摘することにおいて、支持を集める。