中上健次による谷崎潤一郎批判――物語論と当事者論

評論・エッセイ2/年譜 中上健次全集 (15) (中上健次全集)』所収、「物語の系譜 谷崎潤一郎」より(以下、強調はすべて引用者)

 要は物語である。この法や制度である。いつか松坂をおとずれて本居宣長記念館でその息子春庭の資料を見て、腰を抜かさんばかりにおどろいたが、その春庭の見ていた日本語文法、日本語の法や制度と同じものが、モノ、カタリの転調した物語にあるという私の実感である。 (略)
 というのも、物が即ち労働力であるなら、物語とは資本であり、物語論とは資本論であるという三段論法風の考えが起るが、ここで言う物とは労働力に直結しないのである。考えつめる過程を欠き、それに考えることに習熟していないので直感的になり、従ってホラ話ともヨタ話ともなってしまう気がするが、それを覚悟で言うなら、世界を労働力としてとらえるのではなく、この物語論においては性としてとらえるのである。となると、物語論とは資本論ではなく、ただ物語論としか言いようのないものになる。今すこし、言葉を変えれば、法、制度論となる。
 法、制度つまり物語は、いたるところ、あらゆるものに遍在する。一度その法、制度に気づいた者には、この現実は実に息苦しい。たとえば、何げなく耳にしていた音楽。歌謡曲からモーツアルトまで、すべてこの物語の枠組の中にある。モーツアルトが天才なのではなく、音楽をおおう法や制度があるだけなのである。それを、美しいとも、感動するとも思うのは、法や制度に、われわれの感性が順応しているからである。 (pp.140-1)

「物語は資本である」というのは、今後も反芻したい*1。 虚構につきあうしんどさは、「誰かの《物語=資本》に収奪されるから」と説明できるかもしれない。 私たちはつねに、物語の要請に向けて疎外される。
この後の箇所で中上は、大阪という街に出たときの安堵と嫌悪を語っている。 つまり私たちは、街中でも《法や制度、すなわち物語》に包まれる。

 物語という法や制度は組み変えられたが、日本的な法や制度を産み出す土壌、これはつきつめれば日本語であろうが、それがいぜんとして現存しつづけ、それゆえ新たな物語を産み出す。以前の物語の中にたっぷりひたり、それを肯定し快楽とも法悦とも思って来たものには、新たな物語、新たな法や制度が何とも耐えがたい。さながらそれは、深海に棲む魚が深海の水圧にしか棲めないし、水面近く引きあげると水圧の変化に耐圧が順応出来ずに穴という穴から内臓がとび出し即死する形とよく似ているのである。 (p.142)

ここで問題になっているのは、徹底して《内と外》だ。
専門家や職人であることの《内と外》、「お前は外部の人間だ」云々。
「内部も外部もない」とのみ言ってしまうと、そのメタ言説の物語で内部一色になる。 また、「私たちは当事者だ」は、自分たちの役割を固定し、その物語の外部がない*2
「ベタなメタ言説」と、ベタな当事者性の強調は、まったく同じ態度の裏おもてだ。いずれも、自分のナルシシズムに気づいていない、というより気づくことを拒否している。

 私がモノガタリ宇津保』にあって物語『源氏』にないと思うのは、意味の萌芽への問いである。親は何故、親なのか、子は何故子なのか? ここで天地をゆるがして鳴る霊琴は、音とは何かを問い答えているのである。それが物語『源氏』になると、まず親と子の意味は摂関政治の法や制度に繰り込まれ、ダイナミズムを減じて顕わになるのは法や制度ばかりである。 (略)
 法や制度そのものが人につまり作家に手を変え品を変えたエンターテイメントを要請する大きな通俗の機構であるなら、谷崎はおしもおされぬ通俗作家である。 (略) 法や制度の重力や抑圧をこころよしと思っている谷崎にとって、言ってみれば、モノガタリこそ本当におそろしいものとしてあったというのは想像つく。 (略) 『陰翳礼讃』も微温的であるが、ここで語っているむこうに法や制度の作家のモノガタリへの畏れがあると取れば物語の法や制度の及ばぬところに闇があり死があり死穢があるというのが見えてもくる。 (p.143-4)

 人間中心主義や「文学」主義を排除した谷崎にあるのは法・制度であるが、その法・制度に拝跪する谷崎を支えるものに宗教と言ってしまえば乱暴になってしまうような宗教への甘えのようなもの、こびのようなものがある。 (略) 物語の官僚主義谷崎と私を区別できるのは、物語、法や制度のしつこいまでの愛撫を快く思うか胸くそ悪く思うかだけである。 (p.153)

自分でモノガタリを始めてしまう者は、共同体にとって異物になる。
ほとんど全ての「当事者発言」は、物語の枠内にしかない。 自分を「○○当事者」と固定し、その役割通りの権利主張を行なう。 ところが私は、自分のいる場所でモノガタリを求めてしまう、つまり自分の足場を考え直してしまう。 すると、メタ言説や芝居の書き割りでポジション・ナルシシズムを生きていた人たちは、頼っていた足場が崩される不安で激怒をはじめる。――この中上の物語論は、そのまま当事者論であり、臨床論ですらある。

 法・制度の作家谷崎潤一郎近代文学唯一の差別主義者である。差別開放を唱える運動家らが何故この谷崎潤一郎の小説をズタズタに読み破らないのか不思議なほど谷崎は一貫して賤なるもの異形なるものに差別を抱いている。見るのもいやだという不快感である。 『吉野葛』『蘆刈』の舞台になる土地が被差別部落とこすれあう事実を考えれば自明のことだが、谷崎は、差別、被差別を法・制度をいまひとつ輝かすものとして使っている。 (p.155)

同様に、差別こそが左翼運動を元気づける。
誰かを「○○当事者」と固定しなければ始まらないような支援は、最初から差別主義でしかない。 それは同時に、不当な特権化を生む。 そこに居座ろうとする「○○当事者」が、私のような言説をつぶしにかかる。

 谷崎を見ていて法や制度はそれに従順な者に法や制度としての豊饒をもたらし、そうでない者には酷いほどの仕打ちをするものだと感じているのである。 (p.144)

《物語》のナルシシズムを生きる優等生への激怒を、生活の方法論にしなければ。



*1:しかし、「世界を労働力としてとらえるのではなく、この物語論においては性としてとらえるのである。となると、物語論とは資本論ではなく、ただ物語論としか言いようのないものになる」というくだりは、意味がよく分からない。

*2:上野千鶴子らをはじめ、日本の当事者言説はこういうものでしかない。