議論の貧困さが、不自由の環境因になっている

以下の講演を聴きにいきました(チラシより転載)。

 明治大学主催・京都ユダヤ思想学会共催講演会
 マルティーヌ・レボヴィッシ(パリ第七大学)
 レヴィナスアーレントにおける自由

    • 2009年7月18日 15:00〜 参加自由
    • 京都大学 吉田南キャンパス(吉田南総合館・共北25講義室)
    • 通訳:根本美作子(明治大学

 マルティーヌ・レボヴィッシ(Martine Leibovici) 1948年生まれ。 パリ第7大学にて政治哲学を教える。 主な研究領域は、ハンナ・アーレントの政治哲学、近代におけるナチズム・全体主義の影響、抑圧の政治に関する分析、自伝の哲学的考察など多岐にわたる。 アーレント研究・政治哲学研究の他にも、スピノザメンデルスゾーン、ザーロモン・マイモン、レヴィナスヴェイユ等、近現代のユダヤ系哲学者に対する考察を精力的に行っている。 主著に『ユダヤ女ハンナ・アーレント―経験・政治・歴史 (叢書・ウニベルシタス)』(合田正人訳、法政大学出版局、2008年)、『ハンナ・アーレントユダヤ的伝統』(Labor et Fides, 2003)等。 レヴィナスについては、論文に「現れと可視性:アーレントレヴィナスによる世界」(2006)、「スピノザレヴィナスとともに:選択の拒否にいかなる意味を与えるか」(2006)等がある。 この度、明治大学国際交流センターアポイントメントプログラムにより初来日。



たくさんメモをとりました。 ここで細かくは記しませんが、「自発性」 「始めること」 「自由の基本は《出ていくこと》」 「レヴィナスにとっては、窒息が trauma だった」といった一つひとつのモチーフが、ひどく刺激的でした。 日本のニート政策や臨床論は、「自発的になれ、ただし政治化するな」という、自己撞着的な命令になっているように思います。


質問時間に挙手し、次のように発言しました(以下、いずれも大意)。

 日本ではニートや引きこもりが問題になり、若者の「自発性」が国の政策対象になっている。そういう状況について考えるのに、今日の議論がたいへん役立つと思った。ところで現代のフランスでは、彼らの議論はどういうアクチュアリティをもつのか。

レボヴィッシ氏は私の質問が仏訳されるのを聞きながらにっこり笑い、「《自発的であれ》というのは、命令として矛盾している」等とお返事くださいました(さらに細かい論点もありましたが割愛)。


不登校・ひきこもり・ニートなどに取り組もうとする私が、こうした思想系の議論に関心を寄せるのをバカにする声もちらほら聞きますが、私としては、「議論の貧困さが、臨床的な苦痛を生んでいる」と本気で思っています。 議論を的確に豊かにすることは、それだけで臨床活動です。 逆にいうと、「不毛な議論」は、それ自体が苦痛の構造そのものです。