ループする時間 メモ



ひきこもりについて繰り返し訊かれることの一つが、「家で何してるの?」。 ケースに応じてネットやゲームとはいちおう言えるが、要するに「何もしていない」。 時間の流れをなかったことにする、まるで時間が同じ場所でとぐろを巻いているようなことに「主観的にしてしまう」ということで、そこから抜け出せなくなる。 これを「都会の時間」にムリヤリ合流させることは、自我について何の制作プラン*1もなく過剰な流動性に投げ込むこと*2

ループする時間は、自我を守ろうとしている。そしてそれ以外の方法を忘れる。周囲の世界から切り離れた時間軸だけになり、合流はできず・・・。そのままたとえば25年が過ぎる。15歳だった人は40歳になるが、精神は25年前の「ループする時間」を同じ構造のまま生きている。生物的には干からびるが、本人の意識は25年前と同じパターンを繰り返す。

仕事に忙殺される人は、直線的に流れ続ける時間に引き裂かれており、「これが少しでも、自分の都合でまとめられたら・・・」*3と苦しむため、ひきこもる状態は極楽に見える。そして実際、約束ごと*4を破棄して完全休息に入ると、最初だけはうれしくて仕方がない。しかし、なし崩しの自己確保として引きこもった場合*5、時間はすぐにループ状態に入る。 「無制限に死守する休息」において、時間はループして固まり始める。 ▼嗜癖的硬直が、すでに家族への暴力。 しかし周囲は周囲で、自分たちの時間軸に引き戻すことしか考えていない。 「既存社会のエージェント」としての家族や支援者。


田舎では、「集団的なループの時間」があるということか。自意識過剰の若者は、その集団的ループを意識することで、「自分だけは違うんだ」と抵抗する(再帰性)。自分なりの制作過程は、「自分の時間軸」。 大人たちの集会で自分だけ疎外感を覚えるとき、自分だけが「頭のいい、センスのいい時間」を生きている。とはいえそれも瞬間だけ。自宅に引きこもれば、「孤立したループの時間」でしかなくなる。 ▼孤立したループの時間は、地域の時間にも、都市の直線的時間にも参加できない。ただ孤立して、全体主義的なメタ目線を維持する(⇒ネットを介して、集団的時間に参加する)。

  • 支援活動のやりがちなこと:
    • 本人の時間軸だけを特権化して保護 【幼児扱い】
    • 人間関係を固定する集団的時間軸(共同体)に巻き込む 【埋め込み】*6
    • お互いを手段として利用する、都会的自意識の流動性に投げ込む 【道具化、商品化】



《つながる》とは、制作過程を共有することでしかあり得ない。 「そういうスタイルの制作過程は共有できない」と気づいた時点で、それ以上つながる努力をしても無理。(相手を自分の制作時間に屈服させようとするところに、傲慢さやストーカー的執着がある。)

  • ゲームしている時間は、ループの錯覚に陥る。あり得る選択肢の一つは、その嗜癖的没頭が、変換ソフトによって有用労働と位置付けられること。ゲームへの没頭が、社会的に必要な労働行為になっている、というような工学的環境整備(参照)。
  • ループ化した時間を支えるには、膨大なお金や苦労が要る。ご家族は、ひきこもりを支えているというより、本人の「ループ化した時間」を支えている。
  • まちがった医療言説は、教科書に閉じ込められた知識でレッテルを張るだけ。 医師じしんが、「巻き込まれた関係の時間」を生きていることを無視する。 100点答案を目指すだけの優等生。 権威主義的な「専門性」は、ディシプリンという自分の時間軸(自我確保)を押し付ける。 それは同時に、経済的な確保にもなっている。
  • 「ひきこもりから抜け出す」と考えるのではなく、「ループ化した時間をべつの時間にする」と考える。
  • 教科書の外部でふんぞり返るのではなく、教科書に習熟したうえで、それを妥当な形に書き換える、その書き換えの活動を生き続けると考えてみる。 自分を個性的と思いこむイタい自意識の自由人は、他者にとってどうでもいい。



※エントリー後、一部修正


*1:私は意識そのものの「プロセス性」に注目している。

*2:そこで要請される制作作法が《政治性》になる。

*3:「まとめる」=「組織する」。自分の思惑を中心に、時間体験をまとめ上げること。私は精神活動を《制作》のモチーフで(唯物論的に)見ることを、臨床上の基本的な立場としつつある。

*4:仕事や登校

*5:「再開される日」が決まっている長期休暇や、自覚的にプランを立てて閉じこもった場合と違い、

*6:ギデンズのいう「脱埋め込み」の反対を目指す(参照)。