「終わりなき再帰性」から、終わりなき「事後的な分析」へ

ひきこもりとは、再帰的検証に生命エネルギーのすべてを吸い取られたような状態。
生身の人間には、失態を絶滅することはできない。
意識の努力を、事前的な整備から、事後的な検証に置き換えてゆくこと。
「そうするほかない」という理解の共有が必要。
誠実な事後的検証は受傷性が高く、孤立しては営めない。
(おそらく、軽々しく共有を試みるべきでもない)


「欲望の倫理」*1と、「公正さ」。
事後的な分析というスタイルは、両方にかかわる。


ひきこもりにおいて、再帰性神経症的硬直の元凶を成すメカニズムであり、事実上すべての「ひきこもり支援」が、「再帰性の緩和・脱失」を目標にしている*2。 しかし私は、空転して焼き切れそうな「再帰性」エンジンの動力をそのままに、「事後的な分析」というクラッチを固定する。
再帰性は、トラブルという外界枠に噛む必要がある。 再帰性の馬力を損ねてしまっては、とても外界に噛めない。(継続的に活用できる過剰な情念の資源は、再帰性しかない。)


自分の営みの根拠を、それを問うている自分まで含めて問い直す「再帰性」が、事前の合理的思惑を建立するためではなく(それでは無限ループになる)、すでに生きられた営みを分析するために持ち出される。
生身の人間は、どこまで行っても「何をやっているのか自分でも分からない」のであり、どのように自覚された社会的行為にも、一定程度は「自由連想」「錯誤行為」のような性質が残る*3。 「なんだか分からないが、そんなふうにやってみた」のであり、「やってしまった」(失錯)のであり、あるいは、「そんなふうに関係性ができてしまった」(絶望)。
現実については、「事後的に気付いて愕然とする」しかない以上、意識的な主体にできる最善の努力は、起きてしまったことをすべて受け入れ、容赦なく分析の素材とし、そこから公共的な理解をつむぎだすこと。


他者と生きている限り、一瞬たりとも途絶することができない共同的な営みを、いわば「社会的な自由連想」と見做し、そこに対する事後的な分析を、公共的な労働過程と見ること。――この営みは、ひどくしんどいが、プロセスそのものが享楽に関わる*4
空転して暴走する「再帰性」が、「事後性」という不可避の事情によって換骨奪胎され、クラッチを獲得する。 「終わりなき再帰性」という自己検証のエンジンを、有害だからと潰すのではなく、時間的な骨格において再利用する。


これは、再帰性そのものを不可避の症状とみなし、その主意主義的非合理性を、主体の倫理的取り組みの資源として活用することを意味する。 「自分自身を検証してしまう」という最新かつ最古の症候を、無上の倫理的事業の核とすること。





*1:欲望(désir)は、快感(plaisir)ではなく、享楽(jouissance)を基準とする。 「欲望について譲歩してはならない」という、ラカン精神分析の倫理的格率。

*2:「オタクになれ」という斎藤環氏を含む。

*3:cf. 「ユビキタス社会は無意識を二重化する」(斎藤環、「ICCシンポ:ネットワーク社会の文化と創造」より)

*4:私的な労働にはありえない、公共化された労働にのみあり得る享楽。 「公共的な労働に対する欲望」を、軽く考えるべきではない。 ▼「公共化された労働」は、「自分は公共的なんだ」という鏡像的な自意識ではなく、労苦に満ちた分析のプロセスにおいてのみ遂行=推敲される。 事前も事後も関係ない傲慢なナルシシズムが周囲を見くだす、という話ではない。