『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』を観て
作品を評価するためというよりは、ごく私的な、「映画を観ていて考えたことのメモ」です。
【以下、ネタバレ注意】
- 誰かが誰かを殺しても、誰も見ていない 証拠もない 存在は記憶しない
- 人間は血の詰まった肉
- カンヌ映画祭などの様子を撮影したメイキング・フィルムを見て後悔。 登場人物が、近代的な自意識に囚われた個人に見えてしまい、「よくわからないところからよく分からない場所の場面を堪能していた」はずが、分かりやすい自意識のプロットを見せられてしまった。 もはやどの場面も、「自意識が演じている」ようにしか見えない。
- 罪を犯してまで希望をかなえる努力をしたのに、そいつは嘘をついていた。 そいつの言っていたことは(名前まで)嘘かもしれない。 でも、そいつへのこだわりは本物だった。 自分という無記名な個人が、「とにかくこいつが大切なんだ」という執着心を抱いた。 ▼名前が嘘だったというのは素敵だ。 どうせどいつもこいつも、決まりごとでそう呼ばれてるだけ。
- オナニーしてたら銃声がしたのでとりあえず撃った。そしたら自分に関係ないコヨーテを撃ってただけの人だった。「そうなってしまった」ことで、仕事も愛もすべてがパーになる。 「一度そうなったら、取り返しがつかない」というのは、なんと残酷なんだろう。私はそれを本気で恐れている。
- 存在には自意識もナルシシズムもない だからいいのだけど、そのぶん荒廃している (いつもは他人の自意識が最悪に嫌いなのに、荒廃した虚空に直面してしまうと、自意識のある存在がオアシスに見える)
- 「アメリカ人は空虚を怖がる。日本人は空虚を支えるすべをもっている」と言ったのは、誰だっけ。 中古で買った家のなかで待つ妻。 「だって退屈なんだもの」 これ以上生き延びたって、悪いこと以外は何も起こらない 残された時間に、もう何も期待していない いまこの瞬間にこれをしている理由が何もない 「なんでここにいるんだろう」 生きている時間を事業にする難しさ たいていはただ惰性で処理
- 盲目の 自殺志願の 敬虔なじいさん 「あんたらはいい人だ」 人間として生まれてくるのは残酷だ
- たるんだ肉 年老いてもセックス 性はいつもいろどられて語られるけど 嘘だ 汚い肉がうごめいてるだけ (肉として生きることを楽しめる奴が、元気に生き延びる)
- ひきこもってる人間は、何にも興味がないように見えて、自意識は強烈。 自分はひきこもりだ、いやちがう、といった自意識談義に意味があると思い込んでいる。 「ひきこもり」というカテゴリーには、臨床上と政策上の機能が期待されているだけ。 ひょっとすると、差別を助長するだけでなく、本人の自意識を高めるだけかもしれない。
- あんな場所で「当事者論」をしても何の意味もない 人間がバラバラで 奪い合うか 殺した熊の肉を分けてくれる
- 眠っていて 目が覚めてしまう このひどい現実に この肉に閉じ込められて (映画『地獄の黙示録』の 「これは夢なんだ」を思い出す) 肉の体に自意識があるのは残酷すぎる しかも一定時間だけ なんという退屈な残酷さだろう