「せき立て」

斎藤環ひきこもり文化論』 p.90-92 より(強調は引用者)。 上とまったく同じ話ですが、理解に役立つと思うので、ゲームの説明部分から。

 三人の囚人に五枚の円盤が与えられています。 三枚は白で二枚は黒。 囚人たちの背中に円盤が貼り付けられています。 他の囚人の背中を見ることはできるが、自分の背中をみることはできません。 もちろん会話も禁止されています。 ゲームの規則は、自分の背中の円盤の色を論理的に推論して言い当てることができた囚人だけが解放されるというものです。 規則の説明がなされた後に、三人の囚人の背中には、三つとも白い円盤が貼られます。
 ゲームはあっけない結末を迎えます。 三人の囚人はいっせいに走り出し、三人とも正しい解答を述べて解放されるのです。 彼らはどのようにして、正しい答えを得たのでしょうか。 その思考過程は以下のようになります。

  • 囚人Aは、他の二人の囚人B、Cの背中が白いのを見て考える。
  • もし自分(A)の背中が黒なら、囚人Bの目には黒と白の円盤がみえているだろう。
  • ならば囚人Bはこう考えるはずだ。
    • 「もしも自分の背中も黒なら、囚人Cは駆け出しているはずだ」
    • 「なぜならCの目には黒の円盤が二つ目に入っているのだから」
    • 「しかしCは駆け出そうとはしない」
    • 「ということは、私(B)の円盤は白なのだ。駆け出そう」と。
  • しかし誰も駆け出すものはいない。
  • ということは、私の最初の仮定は誤っていたのだ。
  • すなわち、私(A)の背中の円盤は白なのだ。

 この判断には、明らかに時間的な要因が含まれています。 囚人Aの論理構成は「自分以外の二人の囚人が駆け出さないところをみた」という瞬間と、そこから下される事後的な判断なしには成立しないためです。 また、この判断を下すには、誰よりも早く駆け出す必要があります。 誰かが駆け出す瞬間をみてしまうと、論理的な判断が不可能になってしまうからです。 これを精神分析家は「せき立て」と言います。

 「せき立て」において、主体は先取り的に行動し、事後的にみずからの判断の正しさを知ることになります。 このとき主体は、三つの形式を経て変化します。 すなわち、

    • 注視する瞬間の非人称的(=立場が存在しない)主体、
    • 理解するための時間の相互的に不確定な(=立場が定まらない)主体、
    • 結論を下すときの断言(=立場の定まった)の主体です。

「せき立て」は、このようにして「断言=行為の主体」という立場を確立するうえで、たいへん重要なきっかけになるのです。 それでは、なにゆえに断言と行為を等置できるのでしょうか。 これはラカンが指摘するとおり、「あらゆる判断は、本質的に一つの行為である」ためなのです。
 ラカンは言います。 「確言の主語である〈わたし〉は、論理的時間の合い間によって、他人から、つまり相互性の関係から独立する」。 つまり、心理学的な意味での「わたし」なるものは、嫉妬などを含む他人との競争を主観化していく過程から、論理的形式として導き出されるということです。 ここであるいは、「ゲームに勝って開放されたい」という欲望があらかじめそれぞれの主体にあるではないか、という反論が出されるかもしれません。 しかし、この寓話の本質的な意義を考えるなら、ここはむしろ逆に考えるべきでしょう。 つまり、そこに他者があり、ゲームの規則があるからこそ「せき立て」が起こり、そこから「欲望」や「行為」が生ずるのではないか、という可能性です。


    • ゲーム参加者の一人が、重篤なひきこもり様の精神状態にあるとしたら、どうなるだろうか。具体的な論理構成をするより前に、自意識に忙殺されてしまって、何も考えることができないだろう。 ▼このゲームはかなり難解だが、元気な人であればもっと簡単に解くことのできる状況でも、ひきこもるような意識状態では無理。 端的に言って、ひきこもりは「戦術計算におけるバカ」として現れる*1。 あまりに脆弱で自意識が強すぎて戦術的にうまく振る舞えない人間が、数十万人規模で(症候的に)生じている。 それに対して、「お前らはバカだから」と自意識を強める方向で見下しても、何にもならない*2。 むしろ、自意識を無効化する契機が何なのかをこそ考える必要がある。 「せき立て」は、本来その無効化の契機をこそ問題にしているはず。






*1:私自身が他人事でない。

*2:あきらめと焦燥感を強めるだけ。心身症の苦しみもある。