切断的自意識の、防衛的で自傷的な暴走

ひきこもりにおいては、「ひきうける」という心の営みが成り立っていない(参照)として、それはまず、周囲との関係の中で問題になる。 孤立して充足しているなら「ひきうけ」なくてもかまわないが、ひきこもる以上は誰かに扶養されており、対人関係を調節する必要が生じる*1
さらにもうひとつ、ひきこもりそのものにともなう心的苦痛の問題がある。 ひきこもることは、それ自体が「自傷行為のループ」のような、嗜癖的な構造を持つ。 そこに生じている引き受けの破綻については、心的装置の「機能 function」の問題として、非人称的に語る必要がある。
ひきこもりにおいては、ひきうけようとする努力自身がひきうけを破綻させている再帰性)。 「ひきうけろ!」と呼びかけ、本人の主観的な力みを強化することは、火に油を注ぐことにしかなっていない*2。 むしろ支援のキモは、主観的な力みをどう解除するかにかかっている。
ひきこもり状態のメカニズムを説明する努力は、そのメカニズム自体を強化してしまうかもしれない。――このような事情があるために、自意識の再帰的強化を破綻させる方法として、暴力的な指針が繰り返し呼び出される。(暴力は、対人的な摩擦を解消するためにも都合がいいように見える。)

 ひきこもる青年たちは、まさに物理的な解離状態に身を置くことによって、自分を、より正確には「自己愛」を守ろうとしているのではないでしょうか。 少なくとも、ひきこもり状態の発端においては、そのような契機が認められるように思います。
 ただし、それが通常の意味での「症状」と異なる点は、ひきこもり状況が自己生成的に発展するという傾向を持つということです。 まず、後述する「ひきこもりシステム」で示したような悪循環が生ずるため、周囲の状況が症状の悪化をいっそう促してしまう傾向があります。 そのため、ひとたび「発症」してしまうと、反応性に生じてくるさまざまな症状が再帰的にひきこもりを強化して*3、著しい遷延化が起こります。 そしてこれらの症状は、その存在自身が、あるいはその長期化の事実そのものが、個人にとってあらたなストレスないし心的外傷となり得ます。 このため、そこでは想像的な変形(=症状)が象徴的なレベルに干渉するという、通常の症状形成とは逆のメカニズムを想定する必要が出てくるでしょう。 ただし、解離性同一性障害などの事例においても、こうしたメカニズムは部分的には想定できるため、このような事情は必ずしもひきこもりの事例に特異的なものではないかもしれません。 (斎藤環ひきこもり文化論』 p.72-3、強調は引用者)



本人の主観的な決意に期待してもうまくいかない。 「ひきうけよう」とする努力自身が、最初から自意識の形をしており、再帰的に本人を周囲世界から切断する。 現実に即した戦術的な換骨奪胎(去勢)に向かわない。 引き受けようとする態度が、去勢というよりは自意識の加速だけになり、ひとりで勝手につぶれてしまう。 ▼自意識が、疎外の再生産装置として暴走する。 「焦燥感」以外の努力の仕方を知らず、息を詰めた破綻だけが再生産される。 去勢否認が際限なく暴走する苦しさ。
意識的なものの機能に期待しすぎるところに、まずさがあるように思う。 意識的に選ぶより前に何を選んでいたか、そこに方法の核を期待しないと、あとの全部が破綻する。







*1:お金もなくなるし、不満を持たれれば関係自体が続かない。 それを踏みにじるのであれば、対等な関係とは呼べない(参照)。

*2:そうであれば、むしろ端的に「放置すること」がマシに思える。 端的な放置は、精神主義的な篭絡ではないので。

*3:本書の出版は2003年。 「再帰的」という言葉は、社会学ではつとに語られていたらしいが、「意識すればするほどヤバくなる」というひきこもりの事情を説明する文脈でこの言葉を呼び出したのは、斎藤のこの文章が最初ではないだろうか。