寸断恐怖としての、「意識の摂食障害」

ひきこもっている人の意識は、不潔恐怖に苦しむ人のように、いわば「正しく引き受ける」の意味とイメージ*1に支配され、逆に何も引き受けられなくなっている(端的に言えば、葛藤関係の中で途方にくれている)。 自分がバラバラになるのが怖く、硬直した自意識という安全圏(の思い込み)に、つねに自分を幽閉する。 【とはいえ、恐怖のお里は知れている。激しい焦燥感に苦しむことになる。】
ひきこもりは、環境世界全体に対する意識の摂食障害、という比喩が、やや意味ありげに見える。 ラカンに、「汝の現存在を食べろ Mange ton Dasein!」というフレーズがあったが、まさにそのような意味で、「食べる」ことができなくなっている。 「食べる」代わりに、自分の硬直したイメージ確保が優先されている。
責任の過食症と、まったく受け付けることができない拒食。 責任のイメージが肥大しており、過労と無為の往復。 過剰積載と、その対極の虚無のイメージに支配されていて、制御不能。 「制御できない」という恐怖が、確保された自意識を強化する。 それがまた恐怖を増幅し、自意識を強化する、という悪循環から抜けられない。 具体的着手において恐怖と責任を徐々に解除し、コントロールする方法が分からない。 「成功した全体像」を恐怖症的に保とうとすることで、逆に最悪に失敗し、硬直という形で破綻している。
去勢否認が去勢否認を生む悪循環が、「交渉関係からの撤退」に至りついている。 「ひきうける」という、人間の意志にかかわるモチーフのはずなのに、何かに押し付けられたような、外部から「そうするほかない」と繰り返し強制されてしまうような、非人称的な「はまり込み」の苦しさがある。 【斎藤環が「実体化」と呼んでいるのは、このあたりの事情。素晴らしい着眼だと思う。】
ゆるやかに積極的に周囲の状況を摂食し、そこで欲望を訓練するという事情があまりに経験されておらず、「引き受けることができないまま受容される」か、「順応的にひきうけて支配される」かのどちらかで、対話的で風通しのよい試行錯誤的な責任関係を知らない。 ひきうけないまま無条件に存在を受容されること*2は、実は本人が試行錯誤しようとする「責任」においては拒絶されている。