去勢と自意識――「自分の現実がうまく構成できない」関連メモ

  • ひきこもっている人は、狂暴な規範的焦燥に監禁された状態。 ▼非常に特徴的なのは、発話が極端にイミのないものにしかなり得ないこと。 語っている自分自身の意味的貧血。


  • 実存の弱まりは、「病気の事件」というよりは、規範・労働環境・本人の資質など、さまざまな要因の絡み合った「政治の事件」。 価値と優先順位が、内的な文脈の糸が見えなくなる。 ▼それゆえ、個人の賦活化は「政治化」にあたる*1ひきこもり支援は、個人の政治化(交渉主体化)を目指す*2イデオロギーに巻き込むことは、政治化の硬直した一例*3


  • 発話行為*4は政治的に組織される。 恣意的で行為遂行的な権威確立(バトラー)があるとして、それとは別の、無意識の欲望にもとづく発話行為の権威づけが必要。 その権威性は恣意的に左右できるものではなく、すでに生きられたものを事後的に権威化するしかない*5。 「構成の欲望」とメタ的分析について譲歩しない、倫理的な方針。 ▼社会的行為を「自由連想」のように理解すること。


  • プロセスとして一時的な権威づけに成功しなければ*6発話行為が社会的に成り立つという「自律に必須の要因」自体がつぶれてしまう(解釈の自律*7がいったんは成立しなければ、Try&Error の成長プロセスに参入できない)。 自我肥大や幼児的万能感は、むしろ過剰な自己抹消に依拠している。 去勢とは、欲望の道を進むことを意味する。


  • 「自分は駄目なんだ」ばかりでは、実は去勢否認と矛盾しない。*8 それは、自分という事物を政治的に抹消しようという行為であり、想像的に正当性を確保してしまう*9。 ▼自分が順応すべき言葉の中に疎外されて消え入ってしまい、自分の現実を構成できなくなっている。 対人緊張に巻き込まれたら、自分が真っ白になる。 加害恐怖に取り憑かれた被害者的な自意識で、バラバラになる。


  • ひきこもり当事者の語りの「つまらなさ」、何も語れない脱失、語りながら意味が消えいってしまう主体消失は、自意識という抑圧にかかわる。 言葉が、ほとんど自意識と一体化している(他者に持っていかれている)。 この収奪は、主観化の強靭な語りそのものにおける去勢を経由しないと、外圧に屈した無理やりの順応努力にしかならない。 順応努力しかないなら、自分は苦しく迷惑をかけるだけであり、「自分が存在しないほうがいい」という話にしかならない。 (自分は、自分にとっても相手にとっても永遠に剰余物のままだ。)


  • 泣き寝入りの理不尽感や、自覚されていない狂暴な固執への「自由連想」のまさぐりにおいて*10、他者との利害調整(交渉関係)を生き直すこと。 そこでやるしかない。 実は最初から利害関係の中に参入させられていた。――逆に言えば、そこでは権利主張をしてもいいことに気づかねばならない。 権利主張をするところに、交渉関係と義務が発生する。 ▼ひきこもっている人は、むしろ政治的な権利主張ができなくなっていて、それが結果的に「何もできない」状態になっている。 「迷惑をかけてはいけない」という意識が強すぎて、かえって存在そのものが迷惑になっている(不潔恐怖でお風呂に入れず、不潔のきわみになるように)。 ▼権利主張を「なかったこと」にすれば、義務も交渉も抹消できるか。――こっちのほうがひきこもりに近い。 権利主張と意見表明をすることの怖さ。 必然性は、トラブルを続けるためにこそ要請される(主観的にみずからが納得するために)。


  • 内的エンジンに言葉がつながらなければ、言葉は再帰性のループで自滅して脱失するばかりになる。 パロール(parole、発話)として意識を組織できず途方に暮れる。


  • 「勉強と訓練で意味は組織されるようになる、だから訓練すればいい」というのは明らかに重要な要因で、これが若者自立塾などの基本思想だと思うが、内的な必然性の見えないところでは言葉が組織されない*11。 意識が、病的にではなく政治的に解体する。


  • ラカン派では「意味」は想像界*12。 発話や意識がその場で強く組織されるには、何らかの形で必然性が参照される必要がある。 欲望の文脈をどうやって構成するのかという問題。 ▼欲望が主観化されるのは、発話(parole)を遂行することにおいて。 言葉のスタイルが問題になっている。 それが他者たちとの政治的確執の中に投げ込まれる。 まず主観として現実が組織されなければ、自意識に収奪されたまま言葉としてつぶれるしかなくなる。


  • 「加害者になってはいけない」という自意識に収奪されたままでは、すっかり泣き寝入り状態。 ▼人間の欲望のうちもっとも強烈なもの(のひとつ)は、「反論したい」ではないか。 ひきこもっている人に残された欲望の資源として、「反論したい」が重要だと思う。


  • ナルシシズムというのは、他者に完全に支配された状態。 言葉が組織できなくなる。






*1:英語だと「politicization」「politicalization」などだろうか(よくわからない)。 「ある社会問題を政治化する」とは、その問題を議題として強調したり、論争に巻き込んだりすることだと思うが、ここでは「交渉主体化」としての政治化をもっぱら話題にしている。

*2:その結果、支援者に歯向かうかもしれない。

*3:でも、それも社会化の一例だし、それでサバイバルできるなら・・・。

*4:パロール(parole)

*5:参照:「欲望の倫理と「構成の自由」」。 ■「欲望の道をゆく」という行為の倫理的徹底(倫理的衝動としての欲動)と、「無意識の欲望」という事後的構成の関係を再整理する必要がある。

*6:元気な社会人は、それに成功している。

*7:cf.「解釈的自律性」(井上達夫

*8:cf.斎藤環「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論 (中公新書ラクレ)

*9:ラカンが象徴化を「物の殺害」と表現していることを思い出す(Le mot est le meurtre de la Chose.)。 ひきこもっている人は、むしろ自分が象徴化されない存在になることを怖がりすぎているのではないか。

*10:「象徴化=商品化」と理解するなら、自由連想は「市場に売りに出すこと」をしか意味せず、倫理的衝動としての欲動は問題にされない。 これは、ラカンの「象徴化」理解において決定的な立場の相違を生むポイントだと思う。

*11:やみくもな訓練は、それ自体としてはアクシデント的な出会いのきっかけであり得るし、選択肢としてはアリだと思うが、国家事業として「参加が強制される」というのでは、別の話。 予算を投じる優先順位としても非効率だと思う。

*12:3月6日の講演における、斎藤環氏の説明