「自分の現実を構成できない」 メモいくつか

  • 誰であれ、何らかの形で納得を形作って生きるとき、いつの間にかそこで現実を構成している。 「難しい理論を知っているから理論家」なのではなくて、誰でもすでに「小さな理論家」として生きてしまっている。


  • 「現実は社会的に構成される*1」として、その現実の主観的構成について脆弱な成り立ちしかできない者は、苦痛の実存そのものとなり、みずからが「構成されるべき問題」になる。


  • 私が現実を構成する必要があるとしたら、みずからの内的な苦痛や欲望とともに、その私の存在にかかわる具体的な他者との関係による。 それが交渉関係として問題化される。 ▼「現実が構成されない」という事実は、社会的には交渉関係から(遡及的に)問題化する。 あまりに脆弱な実存は、交渉関係を維持できない。 周囲が圧倒的に欲望を生きているときに、本人だけが欲望を構成できない*2。 欲望を構成しても、「周囲の迷惑になるように思える」。


  • 生きることを選択している時点で迷惑になっている。 死んでも迷惑になる。 意識的に何かを構成しようとしても破綻する。 むしろ、自分が抑圧している理不尽感を、無意識的に構成されてしまう創作者として問題にすること。(意識よりも本質的な「構成者」としてのフロイト的無意識*3


  • 内発的な構成のできない人間は、なし崩しに生かされて、なし崩しに死ぬ。 「生きることも死ぬこともできない人間については、どうすればいいのでしょう」(いつか読んだ本のセリフ)


  • 無力感がさまざまなアレルギー的リアクションを生んでいるが、「思い込み」で構成のナルシシズムを担保しようとしても、暴力でしかない。


  • 現実をうまく構成できるようになってくると、「生き延びたほうがいい」云々と欲望が構成されてくる。 するとそれに伴う状況も見えてくるのだが、そこで慌てても「手遅れ」に見える*4。 厄介なのは、「すぐに現実を構成しないとまずいから早くしろ」と急き立てても無理だということ(むしろ逆効果)。


  • 現実を構成できた側とできない側とでは、おそらく「信仰の有無」と同じレベルで話が合わない。 実定宗教への信仰ではなく、現実構成の有無と差異が現代の信仰論争になる。 ▼信仰と似た機能を持つ「現実構成」は、症候的に弱体化してしまった。 必然性のないところで力づくで回復しようとしても無理。 意識で何かを信じようとしても、症候的に反復される虚無で灰燼に帰する。 強度と納得の回復は、無自覚に選択されたもの(必然性)を通じてしかあり得ない。



*1:cf.社会構成主義

*2:「他者たちの声(=欲望)のさなかで自分の欲望を屹立させる詩学アリストテレス)を知りたい(欲望の詩学)」(2003年10月9日)。 自分を組織することができない苦しみ。

*3:事後的に明らかになる

*4:手遅れにならないようにするのが、社会的な制度整備の問題。