8月15日放送「青春リアル」を見て

  もとになった掲示板のやりとり: 「“部屋の雨戸”を一緒に開けてください(書き込みは900件以上ある)

番組は、15年間ひきこもった29歳の男性「キャベツ」を、18歳の女性「早貴」が批判するいきさつからまとめられていました*1。 あの放送を素材にして、討論できるといいのですが・・・。

    • 早貴や一部のメンバーは、キャベツが「子どもっぽい」というのだが、彼が引きこもっていた時間は、幼稚園〜高校の13年間より長い。 それは臨床的に検証すべき長さなのだが、周囲はそれを受け止めきれていない。 「ひきこもっていたこの男は幼い」というのは、事実として全く正しいのだが*2、それをそのまま指摘しても、臨床的に意味のある取り組みにならない。
    • 「若く有能で祝福される早貴に比べ、年老いて幼稚なキャベツはどうしようもない」――そういう自意識そのものが、社会参加を阻害する苦痛の機序になっている。
    • 「どうすれば受け入れてもらえるか」ではなくて、「どうすれば周囲が楽になるか」と考えるべき*3。 いわば、本人がソーシャル・ワーク的に考えること。 排除されても、それを過剰に「自分」の問題にするのではなく、「ワークの失敗」と受け止める*4。 ▼単に「全面的に受け入れる」のでもない。 ここで「ソーシャル・ワーク」は、最初から政治的な色彩を帯びる*5
    • 昨今の社会参加は、一般に「自分を愛させる競争」になっている。 そういうことはやめて、お互いに自分たちをラクにする《労働》*6という観点から、議論できないだろうか。 それは、「僕を愛してください」とか、「お前はダメなんだ」ではなく、スタッフ同士の《ミーティング》になるはずだ。
    • コミュニティとは別の場所にデイケアがあるのではなく、むしろ「デイケア的なつながり」を検討すること。 「この人は引きこもっていたんだ」「俺は引きこもりなんだ」*7とは別の、作業プロセスのような関係性を考えないと、無理だと思う。
    • 9月4日追記】: 拒絶されたからといって、自分が間違っているとは限らない。 受け入れられたからといって、自分が正しいとは限らない。




*1:この編集じたいに、意図があったと思います。

*2:13〜4歳でひきこもり始め、15年も引きこもったキャベツの《精神年齢=関係年齢》は、18歳の早貴より幼く見える。 それを自意識的に確認しても、自傷行為にしかならない。

*3:「どうすれば受け入れてもらえるか」と考えるのは、自意識を強める。 そもそも「嫌われたくない」と考える人は、かえって嫌われる。 「意識すればするほど自転車に乗れなくなる」のと同じような、再帰性のドツボ。

*4:斎藤環は、臨床的アドバイスとして「親切」を挙げているが(参照)、私は最近、これを《双方向的な Social Work》として受け止めなおしている。

*5:Social Worker を「社会福祉士」と訳すのは、概念として貧しすぎるように感じる。【中国語では「社会工作者」(PDF)】 ▼Social Work が含む政治性が、取り組む本人のプロセスとしても臨床的に機能すると言うべきだと思う。 この件はあらためて考える。

*6:売れる商品は、「そのおかげで楽になる同僚や消費者がたくさんいる」と理解できると思う。 ただ、誰かが過剰に「楽になる」ときには、ほかの誰かにしわ寄せが行く可能性に留意すべき。――そういう配慮も、「Social Work」だと思う。

*7:コスプレ的な役割固定で、差別の温床にもなる。 「あいつは《ひきこもり》だ」という名詞形と、「彼はひきこもった経験がある」は大きく違う。