適切な批評や創造は、臨床活動になる
追記によって更に明瞭になっていると思うのですが、このエントリ自体が「制度分析」になっている −たとえば、端的に言って、「上山和樹という制度」の分析になっている。
私が素材化や当事者化と言っているのは、まさにそのことです*1。
一人ひとりの実存は、すでにそれ自体が制度として生きられている。 それを各人が、もう少し自分で検証して、組み直せないかどうか*2。――やたら組み直せばいいのではなくて、分節の必然と、適切なタイミングをともなって。 一人では難しいので、協働で。
次の表現は、再帰性の臨床論になっています。
僕は以前演劇をやっていたときに、演出家にくり返し「ボルテージをあげるな。テンションをあげろ」と言われた。一般にテンションをあげる、というと、何か体に力を込めて大声を出したり激しく動いたりする事を想像する。これはボルテージが高いだけで、テンションは低い状態なのだ。 “テンション”とは、神経系がぴんと張っていて、周囲のあらゆる微細な変化も感じ取り、集中が高まっていて適切な対応がとれるコンディションを指す。テンションが高い状態では、むしろボルテージは平常時と変わらない。(永瀬さん、id:eyck:20060620)
ひきこもっている人は、「今度こそやるぞぉ〜〜!!」などとボルテージは上げますが*3、必然性をたどるような「テンション」は上げられない。 本人は本気で思い詰めるけれども、思い詰めるからこそドツボになる。 そして、人生論や社会学、医療主義等のディシプリンでは、永瀬氏のいう「テンション」の臨床を語ることができません。
動きや風通しを生みだすような適切な批評は、それ自体が臨床活動になっている。 お互いがそういう取り組みを行なえば、職場でもどこでも、もう少し楽になれないかどうか。(いわば、臨床活動のコラボレーション)
気になるのは、こうした努力が、既存のフレームでアリバイを作ろうと思っている人たちとは、敵対するということです*4。 社会参加の努力は、政治的にニュートラルではいられない。 臨床上=制作上の選択が、私的な趣味判断に終わらず、本物の利害にかかわってしまう。――集団的意思決定をめぐる議論や手続きが、どうしても必要と感じています。