現状整理と、論題共有のために。
- 不登校・ひきこもり等、単に失業問題に還元できない事情。
- 「心の悩み」に還元してはダメだが、景気や雇用条件・教育制度しか問題にしないのも困る。
- 動機づけと順応は、個人の継続的な政治化の問題。 それゆえ「個人の社会化」は、政治活動でしかあり得ない。 私は、政治性の抑圧に抵抗している。 ひきこもり支援のスタイルの選択は、政治的選択に等しい。
- 「制度を使った方法論」というジャンル形成。
- 知れば知るほど、制度を使った方法論(参照)は、ひきこもり問題に内在的な取り組みになっている。 「応用」ということですらなく、いわば最初からひきこもり臨床論の形をしている。
- フェリックス・ガタリ、ジャン・ウリ、メルロ=ポンティ、ラカンなどが、「制度を使った方法論」に関連する仕事を遺している。 あるいは再帰性(社会学)と制度分析の関連など、既存の言説領域を参照しつつ、方法論としての位置づけが要る。 ▼たとえば、「精神分析」というジャンル形成がなければ、フロイト関連の議論はわけのわからないものになる。 同様に、制度を使った思考や実践に関して、ジャンル形成が要る。 (ジャンルがなければ、語りの行為自体がジャンルを形作りつつ、コンテンツレベルまで語らなければならない。そんなことを毎回やっていたのではどうにもならない。)
- 医療・教育だけでなく、労働環境や、さらに広い社会思想にも関わるが、逆にいえば、制度を使った方法論がなければ、何を論じても臨床が抜け落ちてしまう。 努力のモチーフとしての「臨床プロセス」がなくなれば、メタ言説とベタな当事者擁護しかなくなる。――ここでは、メタ理論と、日常的な努力との関係が問われている*1。
- いわば、疎外を問題にする「労働過程の精神病理学」という意味で、分析過程=製作過程がモチーフになる。 そこでは、癒し系の「アートセラピー」とはまったく別のことが問題になっている*2。
- 当事者という言葉にまつわる日本(語)の状況。
- 当事者という言葉をめぐるメタ的・内在的考察が、自意識や再帰性を核とするひきこもり臨床に必須。 「当事者」という概念枠をめぐる現状は、支援業界のロジックを支配し、臨床的に功罪をもたらしている。 差別的カテゴリー化や、いわゆる「自分語り」みたいな当事者論だけではどうしようもない。
- 制度を使った方法論は、日本語の文脈では《当事者》という言葉を核にして考えると良いと思う。 そこでは、「支援者」「○○当事者」というBe動詞の所属ではなく、分析労働を通じての、活動形の所属が問われている*3。 私自身は、もはや「Be動詞の当事者性」をあてにしていない(それは差別と暴力の温床だ)。
- このモチーフは、直接の臨床効果とともに、フェアな政治を考えるためにも必要。 政治的な臨床は、臨床の問題を忘れない政治でもある。
- 単なる制度順応だけでなく、資格や専門性に対して、批評的な距離と再編成が必要。 逆に言うと、資格や肩書きは無視できない。
*1:「理論は過激に、臨床は素朴に」という斎藤環の表明(『ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ (シリーズCura)』あとがき)が、直接的な批判対象になる。ただし、こうした理論と臨床の解離は、ひとり斎藤環だけではなく、現代的な「思想」のあり方そのものの問題。
*2:『通路』での川俣正と三脇康生の対談、『アートという戦場―ソーシャルアート入門 (Practica)』での阪上正巳と三脇の対談などを参照。
*3:「活動形の所属」は、三脇康生の表現。 ドゥルーズ/ガタリへの嫌悪感を持っていた私が三脇と議論を共有できたのは、私なりのメタ的な当事者論が三脇の仕事と接点を持てたからだと理解している。 それを通じて私は、「属性当事者と課題当事者」と言っていた議論を、さらに適切に分節できた。