「正当化の労働」を分析すること

現今の言説は、当事者語りが目指すことと、学者語り*1が目指すことが解離していて、その解離を問題にできていない。


いわゆる“当事者”
「自分の苦しみ」*2
医師・学者・知識人  「メタで客観的な言説によって自分の存在と言葉を正当化したい」*3 

この両極しかなく、かつ「学者」と「当事者」は、それぞれが個人内でこの解離を生きる。 「学者」は自分を語り始めるとくだらない自分語りであり、「当事者」は、状況を語るとベタな学者言説になる。 正当化のスタイルがバラバラのまま、個人内で縫合されていない(労働プログラムが解離している)。

“当事者”側が学術を語るときも、学者側が当事者性を論じるときも、「相手の言葉で語る」だけ。 立場を固定したままだから*4お互いの言葉がはまり込んでいるプログラムそのものが問題にされない。 そこを話題にすると、努力のナルシシズムに抵触して激怒される。

他者を不当に蹂躙する暴力はここにある。 ここでこそ、集団のあり方が分析されなければ。 ところがフーコーなど持ち出す論者たちは、誰かが真剣に考えてさえいれば「強靭かつ繊細に思考した」などと修辞で丸めこむ。 その《真剣さの制度=装置》をこそ分析せねばならないのに。 ▼社会を生態学的にみれば「若い世代」と褒めそやされ、生態学を語るナルシシズムはまったく分析されない。(メタ言説を語ることが、正当化労働のナルシシズムになっている。実存を無視して語ることで、語っている本人の実存は無傷で保存される。これは、社会的に武装された分析拒否になっている。)

どういうスタイルで自分を正当化しているか。――その事情への分析は忌避され激怒され、防衛反応的に軽視される。 どれほどていねいに分析しても、「当事者性に依拠してしか語っていない」と言われるのだが、その批判自体が、メタ言説への信仰でしかない*5。 足元の分析をすればするほど、「仕事をしていない」と見なされる。 この非承認は、政治的な排除にあたる。――私は、それが臨床的にも致命的であることを問題にしている。





*1:医療化する医師の語りは、それ自体がメタな「学者語り」になっている。

*2:苦しみを語るフレームは対象化されない

*3:自分の生産物(語られた内容)だけを問題にする語り方

*4:立場をカテゴリーで分類して語っているだけなので、たとえば「当事者」が正社員や学者になるだけで語りをごまかすしかなくなる。――本当に問題にするべき当事者化は、すでに生きている態勢を問題にできるかどうかであり、「今の自分が弱者であるかどうか」ではない。 逆に言うと、学者はメタ言説さえやっていればいいのではない。 学者には学者で当事者性(運動性の余地)がある。 ▼措定する必要があるのは、当事者のプログラムだ。

*5:勉強は、自己検証のレベルを上げるためになされる。 「メタの世界に棲む」ためではない。 むき出しの「現在化=当事者化」のためだ。