ビデオ「ひきこもり脱出マニュアル 全3巻」(監修:斎藤環、2003年)

ある図書館でお借りして、視聴できました。
ひきこもり状況の再現ドラマのあと、斎藤環さんが細かく解説し、ご家族向けのアドバイスを提示するというもので、お話の内容そのものは、全国の講演会でなさっているのと同じものです。
60分のVHSビデオ1本が24,150円と、面食らうほど高額です。 事情は何も存じませんが、「上映権・貸出権付き」であることと、本職の俳優・スタッフによる再現ドラマなどで、費用がかさんだのではないでしょうか*1。 ビデオの性質上、個人で購入して所有するというより、公共施設や「親の会」有志でお金を持ち寄って購入するのにふさわしいと思います。
内容そのものは、斎藤環氏が80年代以来、2000例におよぶ臨床経験から編み出したアドバイスであり、仮に批判があるとしても、「これを踏まえた上でどうするのか」という、拠点としての意義があります*2


斎藤氏の講演会にくり返し足を運んでいる私には、新しい内容はありませんでしたが、

    • ひきこもりの家庭内にありがちなディテールの再現度
    • 暴力への具体的な対処法
    • ひきこもり独特の傷への寄りそい

など、あらためて素晴らしいと感じました。
高年齢化の問題など、このビデオで扱われていないテーマについては、「では自分ならどういう作品を作るのか」として、考えるべきだと思います。



今回の気づき――引き受けるモチーフの違い

    • 斎藤さんは、ご家族や一般向けの啓蒙をされている。 「医師」という、親御さんでも従いやすい権威性を自覚的に引き受け、最低限の状況整備をおこなっている。
    • 私は、本人の社会参加にあたって、内側から直面せざるを得ないモチーフを考えている。 継続的な社会参加や、人のつながりを作ることの難しさを、“当事者的に” 問わざるを得ない。



医師であれば、ひきこもるご本人やご家族とずっと関係を維持するわけではないし、仮に維持するとしても、それは「支援者として」でよいでしょう。 しかしひきこもる側は、ご準備いただいた環境のあとに、自分で関係づくりに取り組まざるを得ない。 むしろ絶望の核心は、そちらにあったりします
一番どうにもならない《関係づくり》については、このビデオを含む “専門家” の意見は、ほとんど参考にならないのです。 なぜなら支援者や学者は、すでにみずからの社会参加を生きており、それはあまりに自明とされるため、関係づくりそのものについては、彼らじしんが考え直すことがないからです。 彼らには、「順応できるか、できないか」しかない。

ひきこもるご本人も、実は《つながり方のスタイル》こそが焦点であることには、気づいていない。 ただひたすら、うまくやろうと我慢したり、踏んばったりしている。――私は、関係性のあり方でこそ、再帰的になろうとしています。 「社会性とは、そもそも何なのか」について、簡単に答えを出してほしくない*3。 ひきこもりの臨床で問われるのは、人のつながりの政治性や歴史性ではないのですか?*4


人のつながりでは、何が抑圧され、何が問わなければならないのか――その選択が常に起こっているし、そこにこそ、関係性の体質があらわれる。 こちらが大事だと思うことを話題にしただけで、その場を干されることだってあるのです。 そこで自分だけ干されたから、だから自分だけがおかしいのか? 何もかも隠蔽するあんたたちがおかしいんじゃないのか?――そういうことを揉めだすと、それはもう思想的・政治的な対立であって、簡単に「治療しましょう」なんて言えない。
社会参加は、政治的な緊張とともにあります。 それは、本人だけのせいにしても、逆に「社会のせいだ」なんて連呼しても、かんじんの問題に取り組んだことにならない。 難しさは、具体的な関係性そのもののレベルにあるのですから。 そこで選ばれている《つながりかた》がどういうものか、それをこそ、実務的・思想的なテーマにしなければ。――と、そういう話題については、このビデオでは(というか斎藤環さんの議論では)扱われていません*5



【10月22日お昼頃の追記】

  • 私にとってちょうどよいタイミングだったのか、このドラマを見ていて、ひきこもる者の言動は本当にひどいと改めて感じた。 そういうことを気兼ねなく思う程度には私も回復してきている。 ひきこもる者を過剰に「いい人」に思おうとするのは、そう思おうとする側の症状だ。 過剰な信頼は、信頼する側のナルシシズムでしかない。
  • ひきこもる者は自分のことしか考えられなくなっているが、それ自体が苦痛を構成する症状となっている。 ひきこもる人たちには、生活費を稼いでいる人と同程度にはひどい人が多い*6。 自分のことしか考えられなくなっている人間を “信頼” したって、ひどい目に会うだけだ*7。 ▼ナルシシズムへの惑溺は、本人にとっても破滅的な顛末をもたらすことが多い。 それぐらいの腹づもりで、戦術的かつ臨床的に見ておくこと。 過剰な信頼も過剰な見下しも、対応をまちがう。
  • 最初のころは気づかなかったが、自分の足元を分析する当事者性への固執は、それ自体が臨床効果をもっている。 やり方を間違うと、また孤立しすぎると、ひたすら自傷行為のような分析になるが*8、自分も彼らも大したことないことに気づくと、自分のやっていることを過大視もしないが過小視もしないというふうになって、肝が座ってくる。
  • 若者バッシングが典型的だが、説教者は自分を棚に上げて、相手だけを責める。 ひきこもる人も説教が好きだし、「俗流若者論を責める人」も、ひきこもりを過剰に擁護する人も、同じこと。 必要なのは、自分を含めてもう一度考え直してみることだ。 《素材化=当事者化》は、やれればラクになるよ。







【全3巻の構成と、キャスト・スタッフ】

第1巻 初級入門編 「こうすれば子供と対話ができる」

  • キャスト
  • スタッフ
    • 撮影: 西庄久雄
    • 証明: 佐々木英二
    • VE: 山澤雄一
    • 音響: 串橋隆弘
    • 編集: 阿部浩
    • 音効: 戸部政明
    • ヘアメイク: 細川真琴
    • 助監督: 谷口知己
    • 広報: 山本聡子


第2巻 思春期対応編 「不登校とひきこもり」

  • キャスト
  • スタッフ
    • 撮影: 北條英樹
    • 照明: 大竹繁夫
    • 音声・VE: 小池友康
    • 音効: 佐藤啓、金貞陽一郎
    • 編集: 阿部浩
    • MA: 戸部政明
    • ヘアメイク: ヨシダサチヨ
    • 助監督: 谷口知己
    • 広報協力: 山本聡子
    • ロケ協力: 学校法人佼成学園 女子中学高等学校
    • 撮影協力: (有)ピコロモンド


第3巻 ケーススタディ編 「精神的症状とひきこもり」

  • キャスト
    • 津島千代(母親52歳): 塚越はるみ
    • 津島貞高(父親55歳、中学教師): 佐藤二郎
    • 井上綾(母方の祖母70歳): 小林由利
    • 津島恵一(高校中退後、10年以上ひきこもる27歳。手洗い等の強迫症状がある): 野口武都
    • かかりつけの精神科医: 中木原和博(特別出演)
  • スタッフ
    • 撮影: 大竹繁夫
    • 照明: 小池友康
    • VE: 水野秀樹
    • ヘアメイク: ヨシダサチヨ
    • 編集: 阿部浩
    • MA: 戸部政明
    • 音効: 金貞陽一郎
    • 助監督: 谷口知己
    • ロケ協力: 中井駅前クリニック
    • 撮影協力: (有)ピコロモンド





*1:これまで引きこもりについては、ドラマ仕立ての映像教材というものが見られませんでした。 実験的・先駆的な企画であれば、資金準備は難しくなります。 もちろん詳細は存じませんが、「ビデオ1本が2万4000円」だからといって、「不当なお金儲けに走っている」と即断はできないはずです。 公的資金援助のない活動が、継続可能な形でお金を回すには、利用者に相応の負担が必要です。――と、そういうことを推測したくなる程度には、私は斎藤環さんを信頼しています。

*2:支援される側のかたは、このビデオを単に馬鹿にするのではなく、「こういう内容にするべきだ」ということを、具体的に提言なさってはいかがでしょうか。 支援者側の思惑を知るためにも、一見の価値はあります。

*3:その答えを簡単に出したがる人は、私のような問題意識のあり方をこそ「反社会的」とか、「人格障害」とか言うことでしょう。 社会性そのものの問い直しは、コミュニティの作法に疑問を突き付けるため、トラブルの火種にもなるからです。

*4:石川良子『ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく (青弓社ライブラリー (49))』のいう「実存的問題」は、実際には、関係性のスタイルを問うことになる。 無理な価値観を押し付けられても、関係は維持できない。

*5:そもそも知識人や臨床家は、ほとんど誰もこの問題を扱っていません。

*6:そう思えなければむしろ差別だ。

*7:そもそもその “信頼” が、ナルシシズムだというのだ。 過剰な見下しや差別は、自己防衛でしかないが。

*8:ということはそれは分析ですらない