コミュニティ臨床としての、リアルタイム民主制?

10月23日深夜の『朝まで生テレビ』(参照)と、それに続く議論(参照)が刺激的です。
《素材化=当事者化》が、コミュニティ臨床と意思決定の問題であることを確認しつつ、取り組まなければならない事業を考え直しています。 以下は簡単なメモ。



直接民主制というより、リアルタイム民主制は可能か。

 僕の感覚では、「政治」の機能は、現状の解決不可能な利害対立を「意思決定」という名の不連続装置によって解決したことにすることだと思う。そこには連続的ではない飛躍があって、それに漏れたものは封印される。この機能を、集合知的に実現可能かはチャレンジングなテーマ。takashiiba  その意味で、どこかで不連続飛躍の機能を担う仕組みが必要。takashiiba

生きられている関係性を考え直すこと。
関係の硬直に、臨床の悪化*1を見ている。


集団的意思決定について、つねに切り崩しと再構成のチャンスを与えるか否か。
ドゥルーズ/ガタリの「分裂性」を本気で考えるなら、そういう議論になるはず。 結論の複数性だけでなく、リアルタイムに参加のチャンスがあるか否か。


「プレモダン/モダン/ポストモダン」を、アクセス権限のスタイルで理解すること。
「神秘的固定/合理的固定/その場で再構成」 → それぞれで、コミュニティの体質が変わる。


いちど固定された意思が、常にその場で検証され突き崩されてゆく*2
しかしこれでは、かえって縛られかねない。あるていどは態勢を固定しないと、人は自由に動けない。つねに介入される可能性があるのでは、お互いに自由が奪われてしまう。 そもそもそこには、集団的意思決定としての法や政策がない*3
また、ひたすら他罰的な集団ヒステリーやポピュリズムはどうするのか。 何をやっても、衆愚的ツッコミだらけ。 被害者意識と「正義の味方」気取りが蔓延し、逃避的・嗜癖的な責任追及ばかりになる*4


リアルタイムの議論共有が、「プロセスとしてのコミュニティ」になる*5。 意思決定の「結論」ではなく、問題化のスタイルを共有する*6。 敵対するときは、結論というよりは事業が違っている。



小規模コミュニティ内での三権分立はどう見るか。 三権の実務は実際に問題になる。

  • 事務を引き受けた人が、代価もなしに全部引き受けさせられる。 任せた側は、自分にクレームを言う権利があると勘違いする。
  • 起こったトラブルが、見て見ぬふりされる。責任関係が放置される。 ▼ありていに言って、中間集団内部での強制力はどうやって担保するか。
  • 再検証がないまま、《つながりのナルシシズム》が押し付けられる。 意思決定がズサンで硬直したまま。




「複数共同体への同時所属」というが、必要なのは、参加ナルシシズムを複数化することではない。

 『社会契約論』における「部分的社会」の禁止を、ひとりひとりの市民の「複数共同体への同時所属」の肯定として読み替える。ルソーが批判したのは、社会が複数の部分に分断されることだが、各人が複数共同体に同時所属すればこの問題は消滅する。 hazuma

共同体参加には、それぞれにハードルがある。 場合によっては、どの一つにも参加できない*7
必要なのは、検証されない参加ナルシシズムを複数化することではなくて、成立しているかに見える参加を再検証(素材化)することだ。 考え直す作業(プロセス)によってのみ成り立つ関係性を、そのつど見出すこと*8
問題は、「プロセスとして維持される関係性」は、衣食住や教育、安全保障を提供しにくいということ。⇒再検証のスタイルそのものが、事業として共同体化できないものか。



*1:妄想の固着、嗜癖性、全体主義、etc...

*2:検証が常にその場で起こる、ということは、関係性や事業について、意思決定に向けた緊張がずっと続いている、ということ。

*3:逆に言えば、多動症嗜癖を内在的に問題化できる

*4:学者たちも、ツッコミのあり方が制度的に固着している。 それによって、みずからの責任を回避している。

*5:すでに死んだ人とも、議論事業は継続できる。

*6:コミュニティを、「結論の共有」というより、「事業の共有」とみる。持続的な再検証事業の共有。

*7:複数所属ができるのは、恵まれた前提条件をもつ人だけ。

*8:検証作業がその都度いろんな人と、ピンポイントで共有される。 ふつうは逆。 「固定された所属ナルシシズム」が、検証作業で壊れてしまう。