分析者=目撃者

関西のある地方にお邪魔してきた。
あの二次会ならではというか、水面下的な問題意識の部分こそ、イベント中に繰り込む工夫が要るかもしれない。
「イベントはよそいきの顔」という声もあったが、その使い分けそれ自体をテーマにしないと、関係を営むためにどういう工夫をしているか(そこでどういう誤魔化しをしているか)が素材にならない。それはいちばん大事な話を回避している。


しんどい人が “自分をさらけ出して告白” すればよいのではない*1。 むしろ、そういうやり方で営まれる関係それ自体を見せることで、論じている自分も気づいていない関係作法に気づかなければ。準備していた告白をするのではなく*2、自分でも想定していなかった言説化を招き寄せてしまうことに準備しなければ。(その場所を確保することが最良の支援になる。)


とはいえ、いちばん決定的なことを言葉にしてしまうと、ほぼ間違いなくトラブルになる。その場の自意識が押し付け合うナルシシズムに抵触するから。――「言葉にしないから関係が維持できる」という面と、しかし「言葉にしなければ関わっていてもしょうがない」という面と*3


言葉にすることは基本的に嫌われるが、「言葉こそが欠けている」という耐え難い苛立ちがあるし、本当に現役の大人としてこの問題に関わっておられる方は、「専門的学問」ではどうにもならないことに気づいている。 既存学問への嗜癖は、論者本人のナルシシズムを確保するだけで、状況そのものを分析的に考えることはない*4。 おのれの業績の都合で「ひきこもり」を対象化することはあっても、その対象化の姿勢そのものがひきこもりを悪化させる元凶だという問題意識は、いつまでたっても封殺される。(彼らには分析=目撃者は邪魔なのだ)


実存それ自体が嗜癖のかたちをしていることが、いつまでたっても主題化されない。 「実存である限りは、嗜癖的である以外許されない」という強固な強制(参照)。 幼稚な学問と、幼稚な実存の解離的同居――この状況こそが地獄なのだ。


自分の社会関係のつくり方を分析できない人たちが、「ひきこもりの専門家」を名乗っている。



*1:「当事者発言」がそういうものだとしか思われていないから、知識人が「自分を隠す」ことが禁欲と勘違いされ、自分の状況を分析する当事者意識がナルシシズムと見下される。話がまったく逆なのだ。自分は関係の結節点だから、そこに表れる自意識や作法を分析することは、むしろドラスティックな作業になる(死の欲動はこのスタイルで生きられるしかない)。それを過剰にもったいぶることこそ、自分の土台はしっかりしていると思い込む鼻持ちならないナルシシズムだろうに。優等生的な学問意識を満たしさえすればほくほく顔ができると思い込む、その幼児性を指摘できる人がいない。

*2:お涙ちょうだいの「告白」を求める雰囲気こそが引きこもりを悪化させるメカニズムであることに、告白をしたがる “当事者” たち自身が気づいていない。 目撃と証言の作法が幼稚すぎる。

*3:正直に話すと言っても、単に「実存のさらし合い」みたいなことでは、幼児性を肯定しあって終わる。 その場の依存的関係への分析は拒絶されたままだ。

*4:そうした分析こそ、本物の触媒になる。この意味での《目撃者》どうしのやり取りこそが必要だ。分析者がいない。ということは、目撃者がいない。▼ひきこもりが、「目撃の圧殺」という面を持ち得ること。ナルシシズムにとぐろを巻いて居直ることが、どれほど無意識的な目撃者を侮辱しているか。(本人もその侮辱者の一人だ)