かりかりのトーストに、柔らかいバターを塗りつけるような


岡崎乾二郎氏の作品集『ZERO THUMBNAIL KENJIRO OKAZAKI』をめぐるエントリー: 蜜と眼(みつばちの箱)

 キャンバスはパンをトーストにするサイズに統一されていて、まるでバターを塗る行為から連鎖が生まれ作品に転じていく。これだけでわたしはお腹いっぱいになるような、豊かな感覚が体全体に充実感として広がっていくのを感じた。

少し日本語がおかしいですが、それがむしろ体の快感に忠実に見えてしまいます。 同じ感覚を見つけたようでうれしかった。
この画集は、手元に置いてよく観なおしています。



「ブラッシュストローク

永瀬さん

 改めて「ボルテージとテンション」について考えたのだけれど、これがある程度「身体性」に関わる問題系である、という連想はすぐに働く。そして「身体性」は絵画においてブラッシュストロークに連結される、という素材が先の「組立」対話企画〈筆触・イメージ・身体〉において俎上に上がった。

私が好きなのは、キャンバスのざらざら感、筆の跡、絵具の色合いと質感*1
それらがなんともいえない調合というか、何がいいのかよくわからないけど、じっと見てしまうようなもので、
そこに「ブラッシュストローク」という、なんとも質感のある、作業過程に照準したような言葉を教えていただきました(参照*2
政治やコミュニティの体質を、こういう「作品を批評する用語」で語れないだろうか、などと考えました。 なんというか・・・つるつるで、お互いに言葉で作業し直すことを許さないような人間関係って、あると思うのです。

 現在、いくつかの徴候として現れているブラッシュストロークの復興を、「身体性」の復権としてみてしまうことは極めて危険だし多くの場合間違いだと思う。それはいわば「身体性」という言葉に含まれる二元論を越えた場所で「構え」を検討・構築・構成し、その先において改めてテンションの高原状態を現出させようという試みなのではないだろうか(まったく余談だが、剣道の師範をしている私の義父が言っている「姿勢」のようなものも、ここでの「構え」に共通するものを感じる。武道というのは意外にヒントになるのかもしれない)。

これを読んで思い出したのが、「居着き」という言葉でした。

 武道でいう「居着き」とは、広義には「ある対象やある文脈に意識が固着して、それ以上広いフレームワークへの切り替えができなくなってしまうこと」を意味する。 (「内田樹の研究室」)
 「居着きの克服」ということを技術的な課題とした場合、私たちはただちに「意識を身体的に徴候化させないためにはどうすればよいのか?」という問いに差し向けられる。 (内田樹非中枢的身体論−武道の科学を求めて」)

こう記す内田氏はむしろ、私が永瀬さんとご一緒しているような「素材化」を無視し、居直っているように見えるのが不思議です。



*1:岡崎乾二郎氏の作品である右上の画像は、有賀文昭氏の「すもも画報」から引用させていただきました。

*2:この言葉を知ること自体に、微妙に臨床効果がありました。