コミュニティ臨床と、「社会関係の再分配」

以前から発言に注目している樋口明彦氏が出ておられて、4時間ほどある podcast をすべて聴きました。
番組のテーマは、「私たちは、そもそも何を望んでいるのか。それを実現するには、どういう政策を求めればいいか」。 選挙直前の放送だったせいもあると思いますが、シニカルさよりも、意思決定にかかわろうとする意欲が前提であり、雇用やベーシックインカムをめぐる具体的な議論になっていました。 『朝まで生テレビ』より前に、こちらで盛り上がっていたとは。


ただ、私がどうしても気になるのが、そこで設定された《つながりのありかた》です。
誰のためのどんな政策なのか、というのは、「誰と誰が、どんな理由でつながるのか」でもあります。 経済学者の飯田泰之氏は、「同世代で団結しなければ」というのですが、それは「世代間の利害対立のため」です。


樋口氏からは、以下のような議論(大意)が。

  • 「自由」の概念は、社会生活の中でしか出てこない。 再分配といっても、おカネだけ渡して「あとは好きにしろ」ではなくて、社会関係を再分配しなければ*1
  • 民主主義というと、いきなり意思決定の話になるが、それ以前に《教育的機能=参加》の話が必要。
  • 連帯に必要な「信頼」はどこにあるのか。

ここで重要なのは、氏が《カテゴリーによる連帯》を打ち出していないことです。
取り組むべきテーマを示しているだけで、「フリーターの連帯」とかは語らない。


私はずっと、「ひきこもり経験者」というカテゴリーで相手を信頼し、いつの間にかそのカテゴリーで《つながる》ことを目指していました。 「当事者どうしなら分かりあえる」みたいな話です。 今は、そのような方針はまったく機能しないと思っています。 カテゴリーで繋がろうとするのは、いわば鏡像を見つめ合うようなつながり方であり、危険極まりない。 私たちははっきりと、《努力方針》だけでつながるべきです。 いくら属性が似ていても、方針が共有できないなら無理。

さらに言えば、

いきなり政策を検討するよりも、《どういうつながり方を欲しているか》を、先に考えるべきではないでしょうか。
求められるつながりのあり方が、必要な政策を決める。 逆に言うと、提示された政策には、《つながりのスタイル》が、すでに書き込まれています。
たいていの社会問題は、直接 “解決” を目指そうとしても、うまくいかないはずです。 適切な取り組みは、むしろ遠回りに見えたりする。 とりわけ(樋口さんのいう)信頼や社会参加については、それ自体を目指そうとすると、うまくいきにくい*2。 つまり「関係性の再分配」は、お金の再分配のように、わかりやすくはない


社会参加の臨床については、アプローチの仕方にこそ研究の焦点があって、そこでありきたりの話しかできないのであれば、「ひきこもりについて詳しいです」なんていうのは、それを言ってる人自身の社会的アリバイづくりでしかない。 「自分を素材化する」という意味で当事者的な考察ができていない人に、専門家ヅラして語られても、かえって苦痛の機序を強化していることがあります。
苦しむ人を政策対象として確定するには、状態像や機能障害の《深刻さ》の区分が必要ですが、内在的な臨床趣旨を設計するには、深刻さとはべつの、生じているメカニズムの理解が必要です。



本当の困難は、《継続的な参加》それ自体にある。

身体障碍でも精神障碍でもなく、いわば《コミュニティ障碍》です*3
関係性そのものの disability であり、ということは、本人だけを悪者にしても、周囲や社会だけを悪者にしても、問題に取り組んだことにならない*4。 関係性そのものに起こることだから、そのつど自分の問題として引き受けるしかありません。――そういう事情について、どういう政策提言をしていくのか。
2004年に「ニート」という言葉が流通したとき、経済学者たちは「景気さえ良くなれば大丈夫」と言いましたが、それでは原理的な問題構造は放置されたままです*5。 あるいはむしろ、「何をもって景気が良くなったことになるのか」という部分で考えたい。 いわゆる “消費” だけが景気なんでしょうか。 金銭授受の活動は小さくても、大勢の “社会参加” が活性化している状態というのはあり得ないんですか。
たとえば阪神・淡路大震災のときには、阪神間の「金銭を媒介にした経済活動」は停滞しましたが、人と人が関わってお互いが支え合うという社会活動は、むしろ平時より盛んだったのではないか。 金銭授受でまかなっていたことは出来なくなったけど、ぜんぜん別の関係回路が生きられざるを得なかった。――そしてその回路は、ライフライン貨幣経済の復旧とともに、潮が引くように失われました*6



ひきこもっていた人が、震災後のコミュニティで活躍したというケースが多いらしい*7

私もそうでしたが、《日常》に窒息した人が、あの非常時には関係性を生きられたわけです。――それを、「どうせ追い詰められたからだろ」と馬鹿にするよりも、考えるヒントにしたい。
私が当ブログで《素材化=当事者化》などと論じているのは、いわば日常に、被災時の時間軸を取り戻す試みです。 システムに回収されるしかない《日常》とは別の、原点から毎回やり直すような関係性が、生きられないか。 日常の時間軸に、非日常の時間軸をたくさん繰りこむような臨床の方法論はないものか。

ひきこもる人は、一般よりも投票率が高いことが知られていますが*8、それは選挙に《お祭り=非日常》の要因があるからかもしれない。 樋口さんは番組の中で、「国政は遠すぎる。地方ならやれるかも」というのですが、(樋口さんもご存じのとおり)ひきこもる人は、むしろ《地元=日常》に弱い。 支援者側にとっては地元で取り組むしかないのに、参加を動機づけるためには、国政のほうが良かったりする(まさに「遠すぎる」がゆえに)。――着手可能な日常は、動機づけをつぶす。非日常は、着手可能性から遠すぎる



方針として、大きく3系統があると思います。

    • (1)あくまで《日常》に埋没させるための、ベタな規律訓練。 合宿をしたり(参照*9、学問やイデオロギーに馴染ませたり・・・
    • (2)技術的な環境整備よって、対人関係なしに《社会参加》できるようにする(参照1)(参照2)。 現状ではSF的。
    • (3)《日常》の時間軸を、自分たちのいる場所で組み直す。 その作業過程の時間軸が《日常》から逸脱しているようなやり方を、集団で検討する。

いま知識人がしている議論は、ほとんどが(1)と(2)の往復ですが、私は(3)を提案したい。

      • 【11月1日午前の追記】: たとえば鈴木謙介さんは、つながりの《カーニヴァル化》をおっしゃっていて、しかし私はそこで描かれた祭りには入っていけない。 あるいは東浩紀さんは、「ベタなメタ理論」をぎゅうぎゅうやり続けるだけでトランス状態になってそれが非日常的体験だ、ということかもしれない*10。 ですからむしろ問題は、《非日常》の設計のしかたにありそうです。

単につながろうとしたり、特定のつながり方に苦手意識を表明するだけでなく、具体的な《つながりかた》の方法論を提示し、試みてみる。 政策的必要は、そこからさかのぼって探せないでしょうか。 それが私自身の課題です。




以下、番組で扱われたほかの論題について。
【※引用部分は、逐語的な文字起こしではなく、大まかな発言趣旨にすぎません。 実際のやり取りのほうが面白いので、ぜひ音声ファイルをお聞きになってください。】





■「社会学者の仕事は何なのか」 「Part7(外伝1)」 21分30秒〜

樋口明彦 社会学者の調査は、「フリーターについて」など、やる前からカテゴリーを決めてレッテルを貼っている。 それよりも、一人の人間の持っているリスクが何なのか、誰にでも当てはまる汎用的な基準を作って、「フリーター状態にある人は、○○のリスクが高い」などとするべき。
鈴木謙介 経済学にとっての「お金」とか「効率性」にあたるものは、社会学では何なのか。
樋口: たとえば、所得、労働上の地位、社会保険、社会関係(人との付き合い)、尊厳の問題、などが考えられる。

これ、ものすごく重要なこと言ってませんか。 《専門家》側の作業体制そのものを変えるべきだという提言でしょう。
最初からカテゴリーを設定しての「社会学」は、ご自分の業績を作ろうとするばかりで、カテゴリーで名指された人たちの参加プロセスを臨床的に主題化することができません*11。 「○○」というカテゴリーの “専門家” として君臨し、自分の意見を通そうとする*12。 むしろそのカテゴリーで名指された「○○」は、研究者の政治意図のために利用されたとも言えます*13



社会学者の、「方法論的全体主義 「Part7(外伝1)」 24分10秒〜

かなり疑問です。
私の接した複数の社会学者は、単にベタな全体主義者だった、という印象があります。 最初は「あえて」という危険な選択でも、いつの間にか安易なアリバイ確保になってしまう。――「あえてやっている」は、それ自体として単にベタなのです。 努力の時間軸としては、《日常化=固定化》してしまう。

社会学に限らず、学問をやっているかたの一部は、その方法論を絶対視してしまって、「周囲を支配する権利がある」みたいに思いこんでいませんか*14
社会参加について考えるのであれば、「それぞれの言説パターンは、それをやっている本人の参加回路である」*15という着眼と、関係性のなかでの再検証がどうしても必要です。 やや挑発的に言えば、「社会学のもたらす精神保健的(コミュニティ臨床的)な悪影響」を考えるべきです。



■つながりの身体性 「Part8(外伝2-1)」 17分30秒〜

鈴木謙介 『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)』もそうだけど、東京の論壇の一部では、郊外のショッピングセンター的なものが社会の中心になり始めてることに対して、「それでいいじゃん」みたいな議論もある。 でも関西は、(繁昌亭設立のエピソードにあるように)ものすごく人称的にやってきた。 そういうのは、個人的には苦手だが、あってもいいのではないか。
樋口明彦 関西は、経済でも文化性で乗り越えようとする。 大阪のポスターを見てもらうと分かりますけど、絶対といっていいぐらい大阪弁と かぶらせるんですよ。 文化的なものが防波堤になる。

私は関西出身で、たしかに大阪でよく見ますが、
方言というのはとても身体的なもので、それを行政側のポスターが押し付けることに、違和感があります。 方言を大事にするというのは、たいてい地域ナショナリズムでしかない。
いっぽう、『life』HPにあった後藤亮平氏のイラストや、東京育ちの竹内敏晴さんが関西弁を習得したエピソード*16では、別のことが問題になっているはずです。――《居場所の獲得》は、すごく身体的な体験ではないだろうか。



【追記】

benitomoro33 さんが、この放送内のベーシックインカムを巡る議論について、文字起こしされています。




*1:樋口さんがベーシックインカムに否定的なのも、《社会参加》に照準した問題意識ゆえのようです。

*2:短期的にはともかく、《継続する》のが何より難しい。

*3:私はセクシュアルな関係性も、「最小のコミュニティ関係」と思うようになっています。

*4:人格障害》が、実はコミュニティ内部の信頼関係をこそ問われる問題系であることが、精神医療系の業界では明らかになりつつあります(『精神科医療が目指すもの―変転と不易の五〇年 (精神医学の知と技)』などを参照)。 人格障害は、きわめて政治的である――というより、人格障害こそが、対人支援の避けて通れない政治性を明らかにしていますニート・ひきこもり関連業界では、いまだこうした自覚が足らず、「被害者が泣き寝入り」という状態にあります。

*5:求人倍率だけでなく、労働環境(対策を考える余裕)からも、景気と社会参加は無縁ではあり得ません。 しかし「景気さえ良ければ解決」というのでは、好景気時にも継続する問題に取り組んだことになりません。 【参照:平成3年〜14年度の「不登校児童生徒数の推移」(PDF)】

*6:震災をきっかけに生まれたネットワークはありますが、震災直後の、得体の知れない実験室のような感動的な磁場は、ライフライン復旧とともに失われたと感じました。

*7:私は機会あるごとに、当時の状況を訊いて回っています。 体験談や見聞情報をお持ちのかたは、メール等でお伝えいただけるとうれしいです。

*8:斎藤環さんをはじめ、複数の支援関係者が口にされています。 選挙関連でご本人が活性化したエピソードは、ほかにもいくつか伺っています。

*9:合宿期間中は《非日常》なのでそれなりにやれても、帰ってきて《日常》になるともとの黙阿弥、というのがありがちなのでは。 「一時入院中は元気だったのに、帰宅したらおかしくなった」というケースは、斎藤環さんも紹介されています。

*10:東氏は、「日本では知的議論はお祭りの形でしか機能しない」 「バラバラに営まれている祭り=ミドルマンを、直列につなげることで状況を変えていく、それが『思想地図』」等と語っている(いずれも大意)。

*11:《女性》など、カテゴリーそのものが排除を生んでいる問題では、カテゴリーによる議題設定に意味があると思いますが、フリーターや引きこもりでは、継続的な社会参加ができない機序は、カテゴリーへの差別だけではありません。 むしろ、調査によって設定された「自分は○○なんだ」という自意識は、それ自体が参加臨床にとって弊害にすらなり得ます。

*12:もちろん肯定的には、カテゴリー設定によってこそ政策が推進されますし、「アカデミックな研究」というフレームが、それに貢献されています。 問題は、《社会参加の臨床》においては、単なるカテゴリー設定ではかえって見えなくなる事情がある、ということです。

*13:宮台真司氏が10代の女性をしつこく「女子高生」とフェティッシュ化するのも、カテゴリーに基づく扇情的な語りで自分の話を聞かせようとしていませんか。 政策論は、扇情的なカテゴリー談義とは全く別の作業であるべきです。 人間をカテゴリー化して耳目を集めるのは、エロ業界のやりかたでしょう。

*14:「○○学」の絶対化が、自己愛障害ナルシシズムを支えてしまう。

*15:それゆえ、その言説パターンへの嗜癖があり得る

*16:神戸市長田区でタクシーに乗り、運転手さんに「東京で生まれ育った」と自己紹介したところ、「お前は長田の生まれや、ウソつくな」と怒られたそうです。それぐらい方言が自然だった。(『待つしかない、か。―二十一世紀身体と哲学』pp.122-3より)