ある地方都市で、ひきこもりの親の会の集まりにお邪魔してきたのですが(場所は保健所)*1、「読み合わせ」という比喩での説明が、すごくいい感じです*2。
私たちは、それぞれの「役割」を演じています。 医者とか、親とか、ひきこもる本人とか。 それぞれが制約と負担を抱えているのですが、各人が勝手に自分の脚本だけを考えていては、うまくいかない。 そこで、お互いの脚本を突き合わせて、「読み合わせ」をしてみよう、という提案です。
イベント終了後のスタッフとの話し合いでは、「読み合わせ」中心の支援を考えられないだろうか、という話にもなりました*3。
既存の考え方と、「読み合わせ」の対比
- 「演じ分け」のサバイバルと、「読み合わせ」のサバイバル
- 宮台真司や斎藤環は、過剰流動的な現代社会においては、「演じ分け」という解離的なあり方が要請される、という。しかしこれでは、解離的な一つひとつの役割にただ順応するしかない。そうではなく、その場でどう振る舞えばいいのか、そのこと自体を関係者で話し合えばいいではないか。その相談プロセスを通じて、単なる解離は必要なくなる(少なくとも、その相談を共有できる相手とは)。
- 「空気を読む」のではなく、「読み合わせ」をする
- 目に見えない威圧に従うのではなく、想定されているシナリオまで含めてお互いに検証し、改編し合う。
- 「全員を主人公化する」当事者論と*4、「読み合わせ」の当事者論
- 一人でスポットライトを浴びるナルシシズムを擁護していても、どうしようもない。 試行錯誤を通じて、現場の焦点はリアルタイムに移り変わってゆく。 当事者役割へのナルシシズムや特権化は許されず、臨機応変の対応が要求される。
- 嗜癖的な社会参加ではなく、「読み合わせ」の試行錯誤を
- 多くのひきこもり支援においては、役割や物への嗜癖を通じての社会参加が模索されている(参照)。 ここでは、順応スタイルそのものは検証されないまま、ひたすら「順応」だけが目指される。 居場所獲得の強度は、嗜癖の強度に比例する。
- 何かへの嗜癖を待つのではなく、居場所そのものを共同で検証し、改編し続けるようなあり方。 一方的な制度順応や商品的差異化で自分を価値づけるのではなく*5、自分への「位置づけのしかた」そのものを検証する。
人事評価についても、前者の能力を問うのと、後者の能力を問うのとでは、人材登用の風景が変わってしまいます。