自分の順応事情を考え直す関係者としての「当事者」

こういう訳語で確認するとともに、私は「当事者」を、ほとんど「関係者」というのと同じ意味に積極的に限定しようとしている。 「当事者=弱者」として役割固定するのではなく、移り変わるお互いの関係の中で、動きのなかでお互いのありように取り組むために。
支援者や研究者も、関係者として「当事者」だ。 「ひきこもり経験者である」というのは、むしろ関係者としての二次的情報にすぎない。 支援者だからといって当事者性を免除されるわけではないし、逆に言うと、「ひきこもり経験者」というのは、永続的な免罪符ではない。 「私はひきこもり経験者だから」といって、役割関係をマネジメントする苦しさを免除されるわけではない。 「当事者」というのは、永続的で固定的な役割を決めつけるためにある言葉ではない*1

これは誰かの弱者性を無視することではなくて、むしろ関係への繊細さを高めるため。 繊細さが期待できないとき、あるいは固定的な関係でひとまずシステムを回さなければならない時には、「役割固定」としての当事者設定が必要になる。 しかしそれも便宜的なもので、一部の支援者や被支援者が思い込んでいるような、「永続する役割固定」ではない*2。――お互いの関係をまるで “身分” のように固定して考えようとするところに、支援に関するヤバいエピソードが詰まっている。


「自意識の硬直」系のメカニズムを持つひきこもりは、「当事者」という役割固定*3をしてしまっては、何よりも臨床的に害悪がある。 一時的に責任免除(責任を免除される役割)が必要でも、ずっとその状態に監禁することが新たな状況の硬直(および自意識の硬直)を生む。 状況や自意識を悪い意味で安定させてしまう方法論や発想は、早い段階で対象化しておくべきだ。

身分を固定する当事者論は、いまの支援業界には(そうと言語化されていなくとも)蔓延している。 「お前は支援対象者なんだから、そんな出しゃばったことを考えなくていいんだ」――こういうセリフが、本当に飛び出す。 「経済的に自立できるまでは、順応することだけを考えろ」ということだろうか。 しかしこれでは、価値観を支配され、問題意識を支配される形でしか、「順応」を目指すことができない。 まさにその《着手》の部分でこそ、起こっている問題なのに。 ▼支援対象者としては、そうやって「子ども扱い」されることで、ようやく居場所を得ている。 これは実は、子どもとして「特権扱い」されることでもある。 一度子ども扱いされると、それをアイデンティティにして居直ってしまう。 そのスタティックな地位に “順応” してしまう。


「ひきこもり」を話題にしてはいても、「順応」を誰も話題にできていない。 まったく無自覚的な自分の順応スタイルに居直って、「ひきこもりのことを話している」だけだ(参照)。


私は支援者に対して*4、「透明なガラスの向こう側に居直るような、観客席で人を観察するような態度はやめてくれ」と言っているのだが、これはそのまま、ひきこもる人に対しても言える。 「当事者」という役割をもらうことは、「支援される側」として、観客席に監禁されることだ(その監禁状況を維持するために、家族が動員される)。 私は被支援者に対しても、「すでに順応問題は免除されたと思うような、観客席に居直るような態度はやめてくれ」と言っている。 ▼これは、「社会に順応しろ」というのとは別の水準での問題設定にあたる。 家族や社会との関係をマネジメントする苦労に参入してくれ、ということ。 「当事者」という特権階級に “順応” してそこに居直るな、と。 権利主張自体を、動き中で一緒に考えてほしい。 それはそのまま、社会参加になっている――その吟味のプロセス自体が。*5
ひきこもり臨床に必要なのは、なによりも「動きの中にある役割」であり、そういうことを話題にできる当事論だと思う(参照:「役割理論」、「活動形での当事者的ふるまい」)。 「この人は当事者なんだ」と、誰かを弱者役割に固定する当事者論は、単に政治的・倫理的に不当というばかりでなく、それ自体が(関係や自意識を硬直させるという意味で)臨床的に害悪になる。 【バトラーの「自分自身を説明すること(Giving an Account of Oneself)」というタイトルは、この観点からは、「当事者性を説明すること」と言い替えられる。】





*1:「永続的で固定的な役割」とは、それ自体があからさまな「差別」だ。

*2:あまりに弱い立場にある人たちが、差別的な役割固定を政治的な道具にせざるを得なかったいきさつがあるとしても、そのこと自体を政治的・臨床的にじゅうぶん自覚し、対象化しておく必要がある。 ▼たとえば私は前回、「単に自分語りでしかないような当事者語りは、それ自体がナルシシズムの暴力だ」と書いたのだが(参照)、本当に深刻なダメージを受けた人同士の間では、お互いの「自分語り」を受け止め合う関係が必要な局面がある。――私は、それがお互いをナルシシズムに巻き込む危険をあわせ持つことに、自覚的になりたいのだ。 自助グループは、所属を与えてくれる側面を持ちつつ、「私たちは同じ当事者だよね」という、陰湿な縛り合いの場でもある。

*3:およびそれに基づく「全面肯定」

*4:ビッグイシュー』往復書簡では斎藤環氏に対して

*5:ひきこもっている人は、直接的には「交渉弱者」として現われている。 そこで、「交渉努力を免除される個人」として固定されるのではなく(それではいつまでたっても子ども扱いだ)、また「フレンドリーな」関係の中で実際には機能している抑圧関係を無視するのでもなく、流動的な交渉関係を生き延びる訓練やコツが必要だ。 私はその時に、法的論争の訓練が必須だと思う。 ひきこもっている人は、力関係のマネジメントがあまりに拙劣だ。 ▼左翼系の人は、国家との関係を考える憲法の話をしたがるが、むしろ生活者としては、民法や刑法、手続き法などを知っておかないと。