幼児性への嗜癖的居直りが、状況を分節する労働過程を排除する

ひきこもっている人を、説教で締め上げて「大人にする」というのがパターナリズム。 これを批判する人たちは、「もはや成熟はできない」というが、「自分はすでに正しいポジションにいるんだ」というこのメタ的な態度自身が説教だ。
自己中心的な嘘やナルシシズムをベタに肯定することは、中間集団に耐えがたい状況を作り出す。 幼児的な “当事者” を肯定する人は、自分たちだけはこの中間集団の騒動から役割確保的に逃れられると考えている(「医者」「支援者」「学者」「知識人」そして「当事者」)。 左翼集団であれば、イデオロギーがこの役割を固定する(参照)。
自分のかかわる関係性そのものを問題にする私は、メタ語りの共同体に入らなければ、承認されない。 目の前の関係性で格闘することは、モチーフとしてすら彼らは無視する。 なぜなら、役割とメタ語りでアリバイを確保したはずの彼ら自身が責任当事者にされてしまうからだ。(アリバイを確保した者*1は、労働過程のディテールに耳を貸さない。メタ語りの観客席から、さんざん相手を利用したというのに。*2


単に「大人になれ」でも、「幼児のままでいいよ」でもない。 お互いのいる場所を分析し、この労働過程を共有しようというのだ。 この方針は、“当事者” をも大人扱いすることであり、ベタに役割固定して子供扱いすることも許されない。 だから、特権に居直れると思っていた “当事者” の一部は、私の動態的な提案を怖がっている*3
斎藤環は、社会関係を「役割ごっこ」に還元することで、分節そのものである労働過程を排除している(参照)。 彼は、固定されたフレームの中に居直ることを推奨している。 役割についても欲望についても、フレームを固定したうえでの嗜癖を推奨しているのだ*4。 しかしこれでは、嗜癖的居直りそのものとして生きられている「ひきこもり」に、内在的に取り組んだことにならない。 彼は超越的な目線を保ったままで、ひきこもりを「観察」している*5

追記――難しさを主題化する必要

俗流若者論も、「ちょwwwww」という冷笑も、自分をメタに居直らせる説教だ。 ここでは、さまざまなスタイルの「説教という幼児性」に対して、「動態化する分析の過程を生きること」*6が対比されている。
とはいえ、「メタによる説教」*7以外の手続きが、なかなか見えない。とにかく分析を過程として実演すると同時に(それは参加とその維持の実演だ)、その分析が理解されること、さらには支持されることの「難しさ」そのものを主題化しなければ。
体験の素材化を直接的に持ちかけても、多くの人は怖がって、逆に事実を隠蔽するためにウソをつき始める。ナイーヴな素材化の提案は、自分が悪意を向けられるゲームに参加しているという事実を見ていない。



*1:金銭だけでなく、役割などの社会的資本も「アリバイ」になる。 ▼規範的アリバイと分析労働の関係は、資本と賃労働の関係を比喩として語り得ると感じている。 規範がどうであるのかというのは、《労働過程のスタイル》の問題だ。 思想と中間集団のもんだいがここに賭けられている。 ドゥルーズが《革命》と呼んでいるのは、「集団における労働過程のスタイルを変えること」だと私は理解している(参照)。

*2:役割そのものを換骨奪胎しながら、分節の労働過程そのものを共有する必要がある。 ▼私はここで、分節のディテールを「相手にしなければならない」と言っているが、それは同時に、「相手にしなくてもいい」手続きを新たに考えることだ(参照)。 現状では、役割固定とメタ語りという形で、「相手を無視していい」ことになっている。 このままでは、臨床的にもどうにもならない。

*3:目の前の関係を徹底的に検証するということであって、公正さの追求なのだが。

*4:医者はそれでいいかもしれないが、学校の先生はそれでは難しいのではないか? 嗜癖機会を提供するサービス産業としての教育?

*5:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.228-9

*6:自分のいる場所や関係を、動きの中で寄る辺なく分節すること

*7:それは順応臨床としては、「このメタ的説教にお前も参加しろ」という誘いにあたる。