ひきこもりメモ

  • ひきこもりとは、政治的硬直であること。 孤立した政治的硬直をどう解きほぐすか*1
  • 私は発達障害も、「孤立した政治的委縮」という大きな枠の中で見ている*2。 本屋に寄ったら、売上総合ランキングの第3位が『発達障害の子どもたち (講談社現代新書)』だった(発売から半年で11刷)。 「自分は発達障害ではないか」「うちの子供は発達障害ではないか」という不安。 社会順応への不安が、「障害」という解釈フレームで処理されていく。 支援現場にも動揺があるが*3、解釈フレームそのものへの対象化が要る。
  • 「ひきこもり経験者」を降りてもいいじゃないか、というご指摘(参照)は本当にうれしいのだが、私が自分で名乗らなくとも、相手から与えられる差別的レッテルがある。 自分の条件は自分ひとりでは決められない。 とはいえ、自覚的なカテゴリー引き受けを拒絶する選択肢がある。
  • 支援業界における、ストーカー系行為への奇妙な寛大さ。 誰かが被害に遭っていても、公的に主題化されることがない。 ▼まったく馬鹿げたストーカー被害であっても、敵対者にとっては政治的武器として機能しているように見える。(「つぶそうと思っていた相手に、ちょうど都合よくストーカーが張り付いてくれた」というわけだ。)
  • レッテル的役割発想*4をやめ、その人が具体的にどういう取り組みをしているか、そこから動的に関係を築いていく、リアルタイムの注意が要る。
  • 親世代と子世代で、関係作法や政治作法がちがっている。 新しい問題意識で取り組もうとするときに*5、「これまではこうだったのだから、これでいきましょう」というのは、自殺行為になる。 かつてのサバイバル術は、現在の自殺行為。 ▼家の中で生きられていた親子対立の構図が、支援事業において反復される。(とはいえ単なる世代対立ではなく、親世代にも柔軟な人がおり、子世代にも硬直した順応主義の人がいる。)
  • 自分のことしか考えない環境順応主義は、現状の流れを突き進めばいいという業界ではいいだろうが(オタクなど)、欲望の流れがせき止められて窒息しているひきこもりでは、どうしようもない。 「とにかく順応しろ」というのは、対策を放棄しているのに等しい。 生物学主義、薬物主義、自覚なきレッテル主義、既存学問への信奉など、すでにある方法論に順応する枠しかないなら絶望的だ。 ごり押しでごまかせば、必ず誰かにどこかにしわ寄せがいく。
  • 「何をどうすれば社会性があることになるのか」は、結果だけから見ていては分からない。 自分自身は硬直した順応しか知らない者が、したり顔で臨床論を説く滑稽さ。 順応というのは、政治的判断の一選択肢にすぎない。 逆にいえば、逸脱した人間をただ肯定していても何も考えたことにはなっていない。 必要なのは、社会参加をめぐる結果とプロセスの間で思考を往復させること。
  • 「モノを作ってそれを社会的に位置づける」という美術作品の事情が、「人を教育して社会的に位置づける」という支援事業の問題構成に重なる。 他者と自分の生産過程の結果である自分は、現状をどう評価し、どう位置づけ、これからどう介入していくか。 プロセスと結果を往復できる思考でないと、すぐに行き詰まる。
  • 社会参加をめぐる思考とは、徹底して政治的なのだ*6。 政治的試行錯誤を排除する臨床支援論は、自分が問題を悪くする元凶として機能し得ることを知らない。




*1:「制度を使った方法論」(参照)の臨床的・思想的モチーフの核心を、私はそこに見ている。 それゆえ、フランスの教育学や精神医療を出自とするその思想と実践は、内在的にひきこもり問題に重なっているように見えてくる。

*2:生物学的因子の考慮を排除しようということではなく。

*3:鑑別診断の権限は医師が独占するが、「発達障害を診断する能力がある」とされる医師は、業界内の行きがかりや個人的判断からそういう引き受けをしているだけで、診断基準や専門性の制度的整備がされているわけではない。(さらにいえば、これから進むであろう制度的整備に対しても、批判的態度の維持が必要だ。)

*4:関係の中での機能を「色分け」して切り分ける

*5:問題意識の設定の仕方が、そのまま政治的立場を表現する。

*6:たとえば、単に共同体的発想をする人にとっては、私は排除すべき人物だろう。