加害と被害――役割順応と、当事者的な自己検証
- 作者: マリー=フランスイルゴイエンヌ,Marie‐France Hirigoyen,高野優
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1999/12/01
- メディア: 単行本
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被害者にとっては相手に服従するのも、また反抗するのも、ともに誤りである。相手に服従すれば、加害者にも、またまわりの人々にも、被害者になるために生まれてきた人間だと思われてしまう。また、相手に反抗すれば、その暴力性を指摘されて、関係が失敗したのは自分の責任にされてしまう。いや、それどころか、事実には関わりなく、うまくいかないことの原因はすべて押しつけられてしまうのだ。
そういったなかで、被害者は相手の暴力を避けるためにますます優しくなり、和解を求めようとする。そして、愛と優しさがあれば相手の憎しみはやわらぐだろうという幻想を抱く。だが、これも誤りだ。そんなことをしたら不幸が待っているだけである。というのも、この状態で被害者が優しくなるということは、相手よりも優位にたっていると見せつけることになるからだ。そうなれば、もちろん加害者はいっそう暴力的になるだけである。
その反対に、被害者が憎しみを見せれば、加害者は喜ぶことになる。それによって、加害者は自分の行為を正当化できることになるからだ。 「こちらが相手を憎んでいるんじゃない。相手がこちらを憎んでいるのだ!」
こういった攻撃に対して、被害者はまったくひとりで戦っているように感じる。とりわけ、相手の暴力が巧妙に、またひそやかにふるわれている段階では、誰かに理解してもらうこともできず、結局は孤立するしかない。 (p.257-8)
この本には、私の体験したことが見事に描出されている(参照)。
「モラル・ハラスメント」というテーマについて、加害者と被害者を簡単に切り分けようとする努力は、おそらくすぐに挫折する。 みずからの責任を拒否する加害者は、つねに被害者をこそ「加害者」に仕立て上げる。 また、集団においてラディカルな問題提起を試みる者は、つねにモラハラの嫌疑をかけられるだろう*1。 制度順応して「穏便に、穏便に」人生を終えようとしている人にとって、現状への柔軟な問題提起は、つねに「迷惑行為」であり得る。
モラハラ的迷惑行為と、真に倫理的と呼び得る問題提起の違いは何か。
私は、次のような傾向を持てば持つほど、モラハラから遠ざかると理解している。
集団で話し合っていても、各人が自分の当事者性を無視するのであれば、問題提起は「迷惑」とされるしかない。 また、何名かが自己検証を行なっていても、それがバラバラに孤立していれば、「真摯な自己の素材化」はむしろ政治的に利用され、排除の口実になる。(公正な自己検証においては、自己の失態も素材化しなければならないが、それは容易に悪意の政治屋に利用される。)
また、「自分で自分のことを素材化する」という倫理的なそぶりは、「自分のことばかり話題にしている」というナルシシズムとも踵(きびす)を接する。 周囲が穏便な制度順応者ばかりでは、倒錯的で権威的な制度順応のナルシシズムこそが「健全である」とされてしまい、自分を切り刻む自己検証の努力は「ナルシスト」と断罪される。(それは、抑圧を温存するための政治的排除であり得る。)
ここでは、《当事者》という言葉をめぐって、理解が転倒している。 当事者性を拒否し、制度順応で悦に入るナルシシズムほど「健全」とされ*2、自分のことを単独的に検証する当事者的な努力こそが「ナルシシズム」と断罪される。
みずからの役割を対象化し、自己検証を加える活動形の当事者意識は、静態的な役割ナルシシズムから自由になる動きといえる。 形骸化した正義言説と役割順応への違和感は、活動形の分析労働へと姿を変える*3。 そこでは、「実際に体験されたこと」のディテールが、徹底的に分節される。 そうした分析や分節を経ずに、加害や被害を決めることはできない。
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- 法学的な諸点については、別の考察が必要。