「現実を受け止める」という視点から、映画二本のメモ

犯罪、粛清、戦争――何億人も理不尽に死んでる
フツーの人生送ってきた奴が自分の体験を回想して本にする  何のために?
素材化して検証するためでしかあり得ない。 素材としてというより、その《検証のスタイル》が共有される。 素材そのものとしてはナルシシズムの共有にすぎない。
ひきこもりがどうこうというより、「社会化されること」のスタイルが問題になっている*2



「リアリティ」は、嗜好品として愛でるモノではなく、政治努力の駆動因。
ナルシシズムに浸るためでなく、交渉主体になるために「自分の現実」が要る*3
あまりにバラバラでわけが分からなくなっている。 cf.実存を回復するためにリスカし、暴力をふるう人たち
「自分のことを話題にしてみる」を出発点にしつつ、そこから現実がようやく組織される。 何が許せないかがはっきりしてくる ⇒言葉による分節は、政治や精神にとって決定的。


メチャクチャな trauma 体験は、わざわざ言説化してもナルシシズムや叙情にならない。むしろナルシシズムを破壊する。 ⇒体験を自分のものにするのではなく、ただ淡々と他人事のように自分の人生を生きる(『The Secret Life of Words』)。 当事者性を話題にすることの残酷さ。  「思い出させたくない」

フェティッシュとしてのリアリティではなく、分析としてのリアリティ。 その分節が最も現実的*4。 それは市民社会のルールを踏み越えてまでリアルな分析であり、うかつに出すと名誉毀損になる。(その分析は、オフレコ情報が駆動することが多いが、公開されている情報だけからでも、「リアルな分析」が出てしまうことがある)
ガジェットとして愛でるオタク的リアリティ*5と、紛争や trauma にかかわる「分析のリアリティ」は峻別すべき。


順応臨床は、政治や訴訟そのもの。 誰のどのリアリティが力を持つか。平気で嘘をつく人たちが、自分に都合の悪い現実をもみ消す。とばっちりを受けた側が泣き寝入りする。 ▼殺された人は何も言わない。終わった殺戮はすぐに忘却される。生きている人が身勝手なナルシシズムに浸る。 ▼いきなりメタに語る人は、自分が愛されることしか考えていない。 ナルシストのインテリごっこ。


記憶を形作る一つひとつの物は古びるが、作品世界や分析になっている部分は簡単に投げ捨てられない。少なくとも、その「分析のスタイル」は、自意識がある限りさほど変わらない。逆にいうと、新しい世代であっても陳腐。 ▼34年前の映像だが、鮮明すぎる。 今から34年後、私は74歳。 あっという間に干からびる肉。 見ようによっては短い、本当に短い。


私にとっては、分析的な取り組み*6が「責任と正義」。 メタ語りは、アリバイ作りでしかない。 「なにをやってしまったのか」を分析すること。 その営みの構造をこそ、共有すること。 そこに参加のチャンスがある。
しかし手続きがなければ、私は相手を手続きなしに訴訟に巻き込むことになる。当事者論に最も優先的に必要なのは、検証のための訴訟手続きだ(分析において私が当事者化されるということは、相手も紛争当事者になっている)。 その手続きを権力で保障できないところでは、分析を要求しても拒絶される。 責任と正義は、強制力との関係を必須としている。



【メモ】 分析的な紛争着手としての当事者化

  1. 観客席から「分析する」のではなく、関係を「創る」こと。 言いがかりをつけて絡むのではなく、「分析同士として出会う」。 分析がないなら出会いはない(同席に意味はない)。 利用するかされるかの「物の関係」になってしまう。
  2. 政治活動  「何をどうすれば順応にあたるのか」 「消された声」
  3. 自分を問題にする/される ことの怖さ。(これほど怖がられるとは)
  4. 遡及的に分析する(精神分析、症例検討会)
  5. 訴訟提起  権利義務(民事)、法益保護・真実発見と人権保障(刑事)  しかし、既存の法学には、臨床的趣旨をもった「分析の過程論」が見えない
  6. 《交渉能力のなさ》という、実務的・思想的要因
  7. 文学的なモチーフ(現実を受け止めること、登場人物、物語)
  8. 「責任と正義」。 それを問題にしているお前自身は?
  9. タテマエと実態の乖離。 実態を実態として分節するのが制度分析。 表の世界で論じられることはわずかなのに、実態を変えられるか? きれいごとの社会参加論は欺瞞すぎる。 「社会参加」とは、グロテスクな紛争に参加することだろうに。

分析的に当事者性を話題にすることは、彼らのアリバイを掘り崩してしまう。 だから危険視され、忌避される。 これは本当に… 命がいくつあっても足りない。



*1:直訳すると「言葉の秘められた生」。 表面化できないところで生きられている言葉の生。 政治的-臨床的な、また法的-実存的なテーマ。

*2:いきなり「ひきこもり」を主題化する者は、それを論じている自分自身がどう社会化されるかを論じない。 いきなり「ひきこもりを何とかせねば」。 最初から自分を観察者の視点に置いている。 その論じ方じしんが苦しさの共犯者であることを認めない。

*3:身体化されて与えられてしまって苦しんでいるもの。 リアリティは、「すでに順応した自分」が、治療したり楽しんだりする対象とするものではない。 観客席にいる人間が、そうやってリアリティを対象化する。 学問や正義言説に酔っている人間も同断。

*4:性や暴力の過激さは、それ自体としては陳腐でしかない。 というより、だからこそやりきれない。 どんなに苦しくても、現象としては陳腐。 「メンタルヘルス」は、ひょっとするとルーチンワーク

*5:斎藤環氏がこだわっているもの

*6:何があったのか、今からそこをどう組み替えていくのか。 あるいは、自分がその場所を離れるのか。