労働過程を中心化すること

社会復帰のためのさまざまな事業や提案がなされているが、そこには「成功した状態」から、できない側を否定する発想しかない。 逆に言うと、「うまくいった側」は、すでに自分を反省しなくていいことになっている。 これは、結果物としての「売れた商品」の側から考える、社会参加の努力を物神に屈従させる発想でしかない。

支援する側もされる側も、「輝かしい成功地点」からのチェックで考えてしまう。だからそれが自意識になり、再帰的な硬直が強まり、入門すらできない*1。 自意識が、対象世界から個人を恒常的にはじいている。

「完成形」を目指すプログラムそのものが、社会参加をダメにする共犯者になっている。 こういう発想しかしない者にとって、最善の「民主的な」あり方は、ひたすらルーズにフレンドリーに受け入れることだが、それは暗黙の抑圧でしかない*2。 状況への分析が拒絶され、誰かを無条件に受容するために*3、ほかの誰かが理不尽に働かされる。 ▼またそこでは、受容された側の言説に対等な権利がない。 単に隔離されて見下されるか、アリバイとして絶対的な参照項にされるか(参照)。

「就労したあとの状態」、完成像の表象に縛られることが、臨床的に最悪の契機になっている。 私は、完成された結果ではなく、過程そのものを中心化する取り組み方を提案している*4



関連メモ



ハイデガーの《存在》は、プロセスとして生きられるほかない。彼が言うのは、《存在》に気づいたあとの努力のスタイルであり、それを実際に推し進める労働のプロジェクト。プロセスの生きられ方を主張し、提案している。 「思考とは何の謂いか(Was heisst Denken?)」と問い、そこに「感謝」をもってくることで、プロセスと結果が強固に結びつく。 その一意性に、暴力を読み取れるかもしれない。


ヘーゲルでは、自己疎外から絶対精神にいたる行程は、「概念の自己運動」としての労働過程であり、最終地点から過程と果実が報告される。論じているヘーゲル自身が、概念的把握の労苦を生きており、その結果である自らが提示されている。


サリヴァンには『分裂病は人間的過程である』という著作があるが、これは「制度を使った精神療法」が中心化しようとしている「過程」とは、趣旨がちがう。 サリヴァンでは、「人間的過程」が対象として観察されるが、制度分析では、語っているあなた自身が環境として、過程として問題になる*5。 制度分析は、むしろ過程を “非人間的に” 容赦なく分析する。 ▼複数人が同じ場所にいれば、複数の過程が同じ場所にあって、《制度》に巻き込まれている。 たとえば言語がそうであるように、制度は、過程として生きられる。


プラトンアリストテレスでは、過程それ自体を自己目的とする活動こそが尊重された。それが難しくなっている状況を問題にしたのがアーレント


労働過程は、自己目的でなければ、何かの道具になっている。イマジネールな達成の果実を目指して、過程が「モノ化=道具化」される*6。 労働力売買で成り立つ世界は、一人ひとりのナルシシズムを支配の契機にしている。 「自発的なナルシシズム」が、体制順応への媒介項になっている。


大文字の他者というものを身体の中以外のどこにも探してはならない」(ジャン・ウリが引用したラカンの言葉*7


対象に未完成な部分が残っていないと、そこに取り組むことができない*8。 完成品としての作品は、フェティッシュ(物神)として嗜癖するしかない。 シニシズムとしての嗜癖を、冷笑的にやりくりしていくのだろうか。 言うまでもなく嗜癖は、激化すれば破滅への一本道でしかない。 「嗜癖主体」として、体制に順応するしかないのか?


自然に触れてホッとする、というのは、「大自然につつまれて」とかいう有機的全体性で理解すべきものではなく、未完成に触れることの重要さだ。 逆に言うと自然の全体性は、人間など待っていない。 地球が爆発したって、宇宙にとっては何でもない。 【動画:「小さな青白い点」(カール・セーガン)】


《分析労働》。 既存の労働過程論や「work through(反芻処理)*9」と峻別するために、こういう表現をしてみた。 内実としては、「制度分析 analyse institutionnelle」や「分裂分析 schizoanalyse」で論じられていることで、徹底して《おのれ自身の分節過程》が問題になっている*10マルクスフロイトを同時に読む作業は、無意識という概念より、むしろ《労働過程》を中心化するところで見えてくる。


これは、中間集団の作り方の選択にあたる。 同世代であるとか、「○○当事者」であるとか、オタクやサブカルフェティシズムを共有しても、それが中間集団のつながりを保証するわけでは全くない。むしろそれは分析なしに関係を押し付ける抑圧になる。私は、制度分析というプロセスの共有を提案している。双方が分析し、その出会いという形をとるのでなければ、関係が続かない。分析なしの関係性とは、「相互フェティッシュ化」でしかない。


私は、身分としての「当事者」を特権的に固定することに反対し*11、制度分析をともなう関係の再編において、当事者化のプロセスを中心化しようとしている。 関係の中で、あなたも責任主体として当事者化される。――私はひたすらそこを話題にするようになったが、これこそが、ひきこもり業界からもアカデミズムからも忌避される理由になっている。 彼らは、ベタに「当事者」に居直るか、ベタに「知的言説」に居直るかしかしない。そこに動態的な当事者化をもちこむと、制度順応的に安泰だったナルシシズムが毀損されてしまう。 彼らは、これを非常に怖がっている。 「すべての過程化」というのは、制度的な命綱を手放すかもしれないような、危険な話なのだ。


マルクスの労働過程論は、『経済学批判要綱(Grundrisse)』が参照される必要がある(参照)。 過程そのものを徹底的に “非人間的に” 考察したうえで、そこから「価値増殖とは何か」を考えなければ。 いきなり搾取論をしても、イデオロギーにまみれてしまって、唯物論的な過程論にならない。 ましてやそこに、労働過程論としての精神病理学の可能性を見いだせない。


労働過程論としての精神病理学を考えるうえでは、まず個人の精神的疎外が話題にされる*12。 しかしそれが複数集まって集団で形成され編成されるのだから、そこには組織論や経営論が、またさらに、社会思想史の文脈が参照される必要がある。 なんと長い道のりだろう。



*1:学問や就労だけでなく、「非モテ論」もまさにこういう事情にある。

*2:「まぁいいじゃん!」という玄田有史氏の口癖は、じつは非常に抑圧的なのだ。 ▼また、「理論は過激に、臨床は素朴に」という解離を生きる斎藤環氏は、目の前の関係の(役割を固定したうえでの)ルーズさを、民主的な受容と勘違いしている。理論と現場の解離が強まれば強まるほど、その解離を抑圧するために、目の前の関係はルーズに放置され、その放置こそがリベラルであると肯定される。これでは、固定されたフレームのイデオロギー的肯定にすぎない。

*3:何もしなくても、「売れたことにしてしまう」。これではやはり、売れたことにされた側は自己反省しない。地位を静止画像でしか考えない、という役割固定のフォーマットは同じままなのだ。

*4:あれこれの批判をするより前に、《過程を中心化する》という私の趣旨が伝わらなければ、何を論じても意味がまったく伝わらない。

*5:中間集団が、論じている自分を含むかたちで問題になっている。医者のおこなう「症例検討会」にちかい。

*6:宮台真司のナンパ指南は、まさにこれにあたる。 あるいはキャラとしての私は、誰かの視線のもとにモノ化されている。

*7:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.272

*8:ジャン・ウリ三脇康生らの「臨床論=美術批評」では焦点のひとつ。

*9:旧訳では「徹底操作」(参照

*10:対象化する視線が超越化されるのではない。 アカデミシャンの目線が、肉眼をやめることはない。

*11:「フェティッシュ化=差別化」への反対

*12:制度を使った精神療法」では、疎外が中心的なモチーフになるが、そこでは「精神的疎外」と「社会的疎外」がともに問題になる。前者が精神疾患として照準化される。