思想は、労働過程の制度をめぐる

結果的な作品から、その生産過程の趣旨を読み解く東浩紀デリダ論には、「生産過程」というモチーフそのものはない。 しかし、脱構築という議論は、「反復される生産労働-過程の趣旨」をめぐっていないだろうか。
「現前の形而上学」という批判は、「結果物=表象」というより、それを目指して居直る労働過程の硬直をこそ問題にしており、いわば「労働過程の特異な慎重さ」を提案している。 結果物ではなく、労働過程そのものの暴力性に対する、特異な告発。 「エクリチュール」は、その慎重さを確立するための基幹的モチーフになっている。
フロイトの「無意識」概念も、オカルト的実体への耽溺ではなく、努力過程の特異な慎重さを社会的に位置づけようとしている。


ガタリドゥルーズの「制度」論は、硬直した思想としての「労働過程の制度」*1を、換骨奪胎すること、それもただ崩すのではなく、制度そのものを内在的に分節しながら生きなおす過程*2を提案している。 それが「制度分析」と呼ばれ*3、いわば当事者的な「足場分析」の、リアルタイムな屹立と再配置が問われている。


さまざまな思想を、そこで提唱されている労働過程から読み解くこと*4。 そこで自分の労働過程=意識の制度を考え直すこと*5。 わたしはそれを臨床的-政治的に必要としている。 あなたの「意識=労働過程」のスタイルは、私の環境の一要因になっている。 私のスタイルが、あなたにとってそうであるように。



*1:たとえば精神分析は、そのような「制度」として告発される。

*2:リアルタイムに、動態的に生き直される「制度化 institutionalisation

*3:医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』vi-viii。(高額で購入が難しい方は、ぜひお近くの図書館に購入リクエストをしてみてください。)

*4:たとえば science は、労働過程の「手続き=制度」の問題。

*5:存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』の「あとがき」は、それ以後の東氏が固定するつもりの、「労働過程のスタイル」を宣言している。