批評的で公共的な生産過程は、いかに武装するか(されるがままにならないか)

詐欺・差別・嫌がらせ・脅迫。 社会生活でイレギュラーだと思っていたほうに、むしろ生活臨床のキモがあった。 メタ談義は、その現実を覆い隠す。(制度化されたメタ談義は、集団的バイアスで人を威圧しているのに、「自分だけは暴力ではない」ような顔をしている。どういう形であれ、社会参加は、暴力の相関への参入にあたる。)
自分を正当化する労働過程が、お人よしのメタ談義に収奪されている。 軽率な良心性は、嫌がらせのチャンスとして利用される(誠実に対応すればするほど、嫌がらせはエスカレートする)。 以前の私は、それをイレギュラーな不幸としか見れなかった。 逆だ。 社会生活は、自分への悪意を最初から想定して設計しなければならない。 閉じた実存的正義は、設計作業になっていない。 ▼自分の正義を100%信じられる者は、「単なる制度順応」という暴力を生きている*1。 結果物へのコスプレ的順応に狂喜する者は、協働で生産過程を生き直す読み合わせを排除する*2


私は公共性を、結果物のアリバイではなく、生産過程そのものの性質にみている。 社会参加を、成功した状態像*3で考えるのではなく、協働的な制作過程と捉えること。――さもなくば、虚偽証言だけで誰かの社会参加は破壊されてしまう(ここでこそ、人格障害系の言動が暗躍する)。 これでは、「アリバイ*4を維持できないのではないか」という恐怖があるだけで、「何があったのか」という検証と素材化の手続きがまったくない。――私はここで、社会生活に織り込まれるべき裁判過程(Prozess)を提案している。


実際に向けられる悪意のリアリティを排除すれば、「正しくあること」のイデオロギーに監禁されてしまう*5。 ここでは、柔軟な生産過程*6はあり得ない(全体主義)。 留保なき分節への没頭*7は、社会にとって危険なものとして排除される。 検証は放棄され、全体性が優先される。

単に善良な人は潰される。 社会参加には、法的思考と政治的分析が必須だ。 とはいっても、「ずる賢くなればいい」のではない。 本当に貴重な倫理的努力を維持するためには、その傷つきやすい活動そのものが最初から武装しなければならない*8。 既存の「支援活動」は、人を家畜にするような、自分で自分の首を絞めるような善良さしか認めず、「大文字の政治」*9は標榜しても、中間集団の現実に対応できない。――既存の中間集団や正当化のロジックに踏みにじられたままでは、社会参加には拷問のような道行きしかない。



*1:「暴力だからいけない」というのではなく、「どの暴力を選ぶか」という話をしている。 暴力は去勢拒否でありつつ、去勢をもたらすものは暴力=強制力を必要としている。 「暴力を禁じる思想」は、それ自体が暴力=強制力でなければ無意味。

*2:コスプレと読み合わせの対比は、「結果物のナルシシズム」と「生産過程」の対比にあたる。

*3:つまり、「売れた商品」。 斎藤環にとって、去勢の理由は「売れなかった」以外にない(参照)。 「売れる」局面では、生産過程が去勢を認めない(バブルにおける生産過程の固定)。 斎藤による「ひきこもりの肯定」は、マーケットから逸脱した結果物をナルシシズムとして肯定することでしかなく、そこで彼は解離的に「左翼」になっている。 いずれにせよ、「結果物」をめぐる話でしかない。

*4:イマジネール(想像的)な自己確保。 メタ的主張内容。 社会に向けて、「自分は正しいですよ」と示す鏡像。

*5:硬直した正義は、頑固で暴力的な宗教の形をしている。 しかし、この「確保すべきイデオロギーの硬直をもって戦う」というあり方は、ある戦局や、オリジナルな分析を期待できない人間集団においては、有益に見える。 良心的な分析的介入が、大きな戦局を不利に導いていないかどうか。 ▼手続きなき、フリーハンドの「民主的議論」への埋没は、全体的破局ですらあり得る。 私はここをうまく整理できていない。

*6:ドゥルーズ/ガタリの「抽象機械」を参照

*7:臨床的な有益さは、公共的な忘我とともにある。 集団での作業が、忘我を生みださず、「気をつかう」関係でしかないあいだは、特異化も、批評の集団的強化もない。 そこで各人は、「自分のことしか考えていない全体主義」に陥る。

*8:「生産過程そのものにどうやって去勢が導入されるか」という課題と、「去勢をともなう生産過程の過激な傷つきやすさをどうやって守るか」という課題は、矛盾してしまう。

*9:情報環境、ジェンダー、不安定就労など