「当事者化=マテリアル化」は、メタな救済に抵抗する

「当事者」という言葉は、たとえば「日本人」と同じフレームをもっている。 やたら聖化されたり、「どこからどこまでが日本人か」とか。 「日本人の心は、日本人にしか分からない!」とか。
論じている自分を置き去りにした正義の思考は、この意味での右翼性を他者に仮託するだけ。 制度的に固定した当事者性を自分について語ると右翼になって、他者についてやると左翼になる。 いずれも、自分を正当化するシステムは固定されたままで、ひどく順応主義的。
みずからの属性側*1をやたら否定し、弱者になり得る他者側をやたら肯定したがる人は、そういう他者肯定のそぶりで、自分だけメタに逃げ切ろうとしている*2。 卑劣きわまりないが、その「アリバイ作り」にすがって助かろうとする弱者も多いし、このような「メタ的正当化」は、すでに再分配の制度に組み込まれている。
臨床的-政治的に必要なのは、自分のポジションを当事者性として引き受け*3、しかもその当事者性を固定せず、事情を検証(素材化)してみることだ。 自分をメタに救済する者は、自分の犯した失態のマテリアルな当事者性を認めない。素材化する作業を絶対に共有しない。(不都合が露見する危険があるからだろう。自分の正当性をメタに回収するその発想こそが社会を覆い尽くし、生きづらさを生んでいるというのに。それこそが、呼吸できなくなる理由なのに。)



*1:日本人男性であれば、「男」「日本」など

*2:自分が実際にやってしまったことを素材化して個人的に分析する作業は一切ない。つまり、加害当事者として考え直すつもりなど毛頭ないのだが、メタ的に「弱者を肯定する」ことで、自分だけは「正しい側にいる」ことになる。中学生の風紀委員のような発想。

*3:自分の側であれ他者の側であれ、擁護すべき “当事者” のカテゴリーを固定してアリバイを得ている正義には要注意。 本当に必要なのは、《正当化のロジック》を分析すること、その分析過程をこそ制度的に導入することだ。 ▼私は、《再検証=素材化》の Prozess を要求している。 結果的な内容物への同意ではなく、その協働的な過程の導入をこそ求めているのだが、ここのところがどうしても伝わらない…。