参加の手続きとしての分析

医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』p.230-1 より、松嶋健三脇康生、私のやり取り(強調は引用者)

松嶋: ひきこもり当事者として自由に話してくださいと。そういうフレームの中で全面肯定されて、ということは逆に言ったら、ひきこもり当事者としての役割を完璧に演じるように要請されているわけじゃないですか。
上山: それが参加資格になってるんです。
松嶋: そう。それに対して、「専門家」が分析をする場合は、たとえば僕は、人類学でイタリアのことをやっていますというと、それが参加の資格になって、「イタリアのことについて書いてください」といわれる。これは人類学の場合だとありがちなんだけれども、それぞれの国の話がバラバラに単独で扱われて、それがいま自分らが生きていることの生きづらさとかにつながらない。たとえば「イタリアについて書いてください」というのを、その通りのものにはしたくない。そうすると、そこでいろんなレベルでまさに分析しなくちゃいけないと思うんです。専門性と言ってもいいし、当事者性と言ってもいいと思うけれども、そこはやっぱり無視をすればいいという問題でもないし。全面肯定をすればいいという問題でもなくて、そこをうまくつなげていくとか、いい落としどころを見つけていくとかいうこと自体が制度分析という行為になっているから。
 だからこそこの本を作ること自体が制度分析のプロセスになるように作らないと。制度分析についての本じゃなくて、制度分析としての本というふうになって初めて、この本を作る意味があるんじゃないかなというふうに僕は思っていて。
三脇: 制度分析「についての」本は、むしろ最も制度分析から遠いものとなるでしょう。それだけは避けたい。
松嶋: でも自分のことについて語れというのも、(略) どのレベルで自分を出すかというのは、やっぱりいろんなレベルがあると思うんです。それがベタに「自分語り」になると、また楽屋話みたいに理解されてしまう。どのレベルに分析を入れているかというのは人それぞれでいいと思うんですが、いかに客観的にみえるものであっても、そこに自己分析が入っているものがあるし、逆にいかに自分について語っているセルフドキュメンタリーであっても、自己分析が全く入ってないものがある。セルフドキュメンタリーと客観的なドキュメンタリーという線じゃなくて、分析が入っているドキュメンタリーと、そうでないものというふうに分けないと。



「分析の入った当事者発言」という意味で、私が最も注目しているのが岡崎乾二郎三脇康生の仕事だ。 あるいはいろんなかたの業績を調べていると、“客観的な” 学術論文が、ご自身の置かれた状況への内在的分析になっていることがある*1

多くの知識人や支援者は、ご自分の当事者性を分析することを拒否し、「情報社会論」「生態学的分析」をすればメタに居直れると思っている。 私はそこで「ご自分がどういう制度にはまり込んで言葉を使い人とかかわっているか、分析してくださいよ」と呼びかけるのだが*2、それがことごとく激怒・不安・軽蔑*3を招き寄せてしまう。

学者や支援者だけではない。 「○○当事者」と名指された人のほとんどは、その自分の当事者性を分析せず、「当事者だ」というポジションに居直ってしまう*4。 そこで固定された発言権や恩恵が、不当な暴力ですらあり得るという危険を無視する*5
私にとって《居場所》とは、分析の場所がそのつど確保されること(そのつど確保される分析の場所そのもの)だ。 単に場所として「フリースペース」があっても、それはいわゆる居場所ではない。 同調圧力による監禁をこそ問題にしなければ。



*1:「自分について取材する」ことには、分析的な意義があると思う(貴戸理恵氏がこだわっているのもこのあたりかもしれない)。 とはいえ警戒が必要だと思うのは、「自分を取材する」ことは、客観的に見えても、ナルシシズムでしかない場合があること。 「メタに立って自分を語る」ことには、自分がはまり込んでいるメタ言説への分析がないから。 ▼藤井誠二氏は、「セルフノンフィクション」の授業をされている(参照)。

*2:私が斎藤環氏に要求したのは、この意味での当事者発言なのだが…

*3:「自分のことばかり考えてるんですね」云々

*4:当事者性(置かれたポジションの事情)への分析を要求することは、事態の深刻さを軽視することではまったくない。むしろ逆だ。

*5:こういう指摘によって、私は “当事者” コミュニティで孤立してしまう。 ひきこもりだけでなく、たとえば就労問題のコミュニティでも。