臨床的難解さ

『地域保健』 『精神科看護』 『臨床精神医学』 『看護学雑誌』 『教育と医学』に掲載された、「制度を使った精神療法(psychothérapie institutionnelle)」を解説した三脇康生の論考を読んだ(参照)。 そこで論じられている以下のようなモチーフは、そのまま「ひきこもり」に内在的に関連する。

  • それぞれの立場がみずからの機能を分析し、分析同士が出会うこと(視点の交換)
  • 脱施設化、治療共同体
  • 「医学モデル」と「生活モデル」の対立(医療と福祉)
  • 「学校が病み、病院が病む」

これは、支援対象も含めた関係者全員に自己検証を要求する取り組みであり*1、弱者のみを “当事者” と切り分けて事足れりとするものではない。 むしろそのような固定的役割分担を解きほぐす分析や組み直しが問題になっている。


みずからの視線そのものを《制度》として組み替えてしまう論考は、メタ的な「理論的考察」のみを考えている人にとっては “難解” かもしれないが、逆に言うと、この方法論がどんな思想であり得るのかを一度は突き詰めて考えておかないと、日常業務の工夫の話をバラバラにしているだけに見える。 ある意味ではあまりに「当たり前」に見えるので、「なぜそんな話をしているのか」、論者の目指しているところが見えてこない。 私自身ずっとそんな状態だったのだが*2、最近になってようやく議論が有機的につながって見えてきた。 この独特の “難解さ” を考えること自体が、理論と現場の緊張関係を考察する作業だと思う。





*1:ふつう「当事者意識を持て」というと、役割意識への忠誠心を強化する呼びかけだが、ここではむしろ、そういう同一性を解体的に検証しなおすことが問われている。

*2:「精度を使った精神療法」の存在を知ったのは2002年頃だったはずだ。 最初は、「左翼イデオロギーの運動なんだな」としか思えなかった。