《内容》 と 《過程》

メタな内容にこだわる人は、みずからがプロセスとして実現されることを忘れている。 ひきこもる人も、学者もラカニアンも、考察内容そのものに没頭していて、自分が取り組みの労働過程であり、そこにこそ起きる問題であることを忘れている。
ふれあいにこだわる人は、逆に内容を無視し、存在としての肯定ばかりにこだわる(参照)。 「ありのままに、自分らしく」。 自他の語りをロマン主義的に全肯定し、分析的に検討することを許さない。 「こんなに当事者を肯定しているのに、お前はその私を(この場/関係を)認めないのか!」*1。――「こころを大事にする」「和気藹々(わきあいあい)」といった態度は、反論を許さない暴力になり得る。


「存在を肯定して言葉を無視する」当事者論の暴力と、「内容だけを見て過程を無視する」政治的臨床の暴力。 いずれもメタな正当化だけがあって、過程への取り組みがない。 「そーっと大事にする」のは、歓待する側のメタなアリバイ作りと、尊重という名の差別であり得る*2
必要なのは、存在を全的に肯定して内容を吟味しない歓待ではなく、プロセスを主題にして言動を分析し、具体的に関係を組み替えることだ。 メタな内容に拘泥しているからといって、その姿勢そのものが絶対的に肯定されるわけでもない*3





*1:弱者性を差別的に特権化する “当事者” は、自分の言動を全面肯定することを要求し、仮に「批判してください」と言っていても、そう言う自分がまたメタに救済されている。 どんな批判をしても、メタに救済された内容とそれによって確保された経済権益は絶対的に保守される。 そこを制度として分析的に批判すると、反動分子扱いとなる。

*2:他者として尊重しているのではなく、物象化して(物扱いして)大事にしているだけ。 フェミニスト男性が女性をモノ扱いしがちなのは、偶然ではない。 ▼メタ的に自他のアリバイ確保をしているだけなので、実際の言動を素材にディテール分析されることがない(当事者的分析を嫌がる)。

*3:「雇用主」が、メタな内容だけに拘泥してくれればいいわけだが。