親密圏の他者性

年頭にメモ書きした私の twitter より:

* 親密圏それ自体の、言説にとっての他者性。他者概念を大事にしたがる論者も、自分の親密圏をまったく論じられない。
* 再帰性の高まった時代にも、親密圏にだけは「自然さ」のロマンが求められる。そこに暴力と排除がある。――だからといって、「何でも受け入れる」は無理。それは、身体や無意識を組み伏せようとすること。⇒承認やつながりそれ自体に、デザインが要る。



マイノリティ擁護の言説は、自分の親密圏を絶対的だと思っている。他者性を擁護する自分の努力に他者性があり得るとは考えていない。それゆえ、「マイノリティを擁護しているのに、あいつは私を最上位と認めてくれない!」という発想になる。 「正義」で確保された集団は、親密圏も臨床性も課題とは認めない。 せいぜい、「精神障害者が社会防衛のために排除されている。マイノリティを包摂しなければ」で終わる*1。 メタ正義に居直るスタティックなナルシシズム


とはいえ、「エリート主義や大文字の正義を捨てた」と言い張る人は、今度は臨床プロセスの中心化において、合意形成の問題を考えない(参照)。 「私は臨床的配慮を最大限に考えているから、このプロセスは肯定されるべきだ」――ここでは、絶対化された分節過程が孤立し、ナルシシズムに閉じる。 周囲は(内容以前に、プロセス中心的であるという主観的主張だけによって)転移を強要され、振り回される*2


どちらも、確保された親密圏と主観性には、疑念が許されていない。
こういう状況では、集団の都合が問題意識を踏みつぶす*3


これは、単にケア労働を強調することでもない。



【追記】 togetter「塚越健司 「リーク社会の誕生」ゲストレクチャーまとめ」より:

 塚越氏 「内部告発は自分の身元がバレることが一番怖い。ウィキリークスに情報を提供するにはトップページから情報を送信するだけ。その際にログが削除され、世界中のコンピューターでロンダリングされ、スウェーデンのサーバーに到着し、暗号化が解除される。」

親密圏の関係性については、告発を実名でやらざるを得ない。
なおかつ、「いいがかり=冤罪」の検証も難しい。
⇒ 「親密圏に取り組んで構わない」という奨励を、どう制度的・技術的に実装するか。




*1:ここで尊重されるマイノリティ当事者は、実は幼児のようにしか見られていない(ナルシシズム確保のネタ)。 メタ正義の主張者には、自分たちの親密圏がどういうロジックで成り立っているか、検証するモチーフそのものがない。 それゆえ、臨床的趣旨をもった関係性も成り立ちようがない――関係性を検証するという課題そのものがない。 彼らにとって、「マイノリティを肯定していれば」、もうその関係性やおのれの主観には、他者はいない。

*2:《メタを捨てた》と言い張る態度がメタ性を主張している。 「プロセス中心主義」というスローガンそのものが、合意形成の試練を経ないメタ的なアリバイ確保になっている。 プロセスを中心化していると思い込みさえすれば、全面的に肯定されるべきだと。 ⇒ そうした思い込み同士がぶつかり合った時にはどうすればいいのか? ▼一党独裁ならぬ、「分析プロセスの独裁」が主張されている。いわば哲人政治ならぬ「詩人政治」であり、これだけではどうしようもない。

*3:「本当は考えるべきなんだが、それをやっていると集団から干される」