正義と臨床 ―― いっしょにいることの無理

親密圏のポリティクス

親密圏のポリティクス

精読した。
ここに集まる論者は、それぞれの仕方で 《みずからの関係作法》 をパフォーマティブに演じている。
親密圏 について 論じつつ、「この人は、こういう態度で身近な関係を作っている」ということ。


以下、ひきこもりを考えるヒントとして(強調は引用者)

 「親密圏」(intimate sphere)という言葉を、ここでは、具体的な他者の生/生命――とくにその不安や困難――に対する関心/配慮を媒体とする、ある程度持続的な関係性を指すものとして用いることにしたい。 (p.213、齋藤純一)

    • もし家族が、自然状態と同じように、「自然な条件」であり、それ自身国家の監督と法の監視の圏外にあるとしたら、なぜそこで万人の万人に対する闘争が現出しないのだろうか。その答えは親和性や愛情のなかにはない。・・・・家族には自然な一体性や平和があるというリベラルたちの考えは、それが、自然状態の根本の条件、つまり欲望の平等や欲望を実現する能力の平等を欠いているという想定に依拠している。 [Wendy Brown,『States of Injury: Power and Freedom in Late Modernity』,p.150]

 男性に対抗しうるだけの「力の平等」が女性には否認されることによって、法以前の「自然状態」は「戦争状態」に陥らずにすむ。引き続き W・ブラウンの表現を用いるなら、近代家族は、対等な者たちの間の「契約」(contract)――法=ルールを措定する行為――ではなく、劣位の者が優位の者に与える(しばしば暗黙の)「同意」(consent)によって構成され、維持される秩序である(cf.[Brown,同,162f.])(略)
 家族の秩序を政治化しつつ同時にそれを脱-暴力化する途は、たしかにそこに自由と正義を核心とする市民社会の原理を導入する以外にはないだろう。親密圏の脱-暴力化を「家族の絆」の再生に求めるなら、それは、家族の間から抗争そのものを消去しようとする抑圧的なイデオロギーを以前にもまして強化せざるをえない。必要なのは、抗争そのものを取り除くことではなく、それを非-暴力的な仕方で続けることである。 (略) 暴力化(=自然状態化)としての「家族の危機」は、家族をあらためて「法状態」へと変えていくことによって、かなりの程度克服することができるだろう。 (pp.224-5、齋藤純一)

この引用では 《弱者=女、強者=男》 だが、
状況に応じて、弱者には「子ども・高齢者」のほか、いろんな性別や属性の人が入り得る。
ひきこもる本人が暴力で家族を支配していることがあるし、逆に集団で追い詰められることがある。
親密圏でこじれた紛争を、「非-暴力的な仕方で続ける」のは容易ではない。 むしろだからこそ、法や掟という 《暴力=強制力》 が必須に思える*1


そして強制力の話だけでは、《主観性の方法論》という集団的テーマが扱えない。
むしろ、主観性の生産様式にこそ、集団的合意の焦点がある*2
また、合意形成が《正義》でしか論じられないがゆえに、「努力すればするほどおかしくなる」という臨床上のモチーフが扱えない。 正義と臨床が、お互いを盲目にする関係に放置されている。




 しかし、「正義感覚」といっても、それがいかなるものなのか、いかなる役割を果たすものであるのかあまりに漠然としているとの疑問が生じるだろう。 正義感覚とは、「何が正しいか不正かを判断する能力」と、議論の出発点として仮に定義しておく。 多くの政治理論は、(「正義感覚」と呼ぶかどうかは論者によって異なるであろうが)何らかの形で、人々がこのような正義感覚のような能力をもっていることを、社会秩序が可能となるための条件(または安定的なものとなるための条件)として措定していると考えられる。
 ロールズもまたその一人である。 『正義論』では、正義感覚(sense of justice)について以下のような説明がされている。

    • 一定の年齢を超え、必要な知的能力を持つ各人は、通常の社会状況において、正義感覚を発達させることを仮定しよう。 われわれはものごとが正しいか不正かを判断し、これらの判断を理由によって裏付けるスキルを獲得する。 さらに、われわれは普通これらの決定(pronouncements)に従って行動する何らかの欲求を持ち、他者の側にも同様の欲求を期待する。 [Rawls,『A Theory of Justice: Original Edition (Oxford Paperbacks 301 301)』,p.46]

 『正義論』の体系の中では、この正義感覚は、原初状態で選択された正義の二原理参照*3によって統治される社会を安定させるために不可欠の役割を果たしている[Rawls,同]。 もっとも、正義の二原理が妥当するものとして想定されるのは、いわゆる「公的領域」であり、上記の正義感覚も、第一次的には公的領域」における働きが論じられていると考えられる。 では、正義感覚は家族内においても、働く余地があるのか? (pp.168-9、野崎綾子*4

相手が、自分の想定する「正義感覚」を持ってくれなかった場合には?
ローティの「想像力」への違和感と似たもの*5。 私たちは、自分のせいで相手がひどい目に遭っていても、罪悪感に苦しむ以外に何もできないことが多い――ひきこもりは、多くがそういう状態だ*6

公的領域の正義が、ある様式において強制力を要求するように、親密圏においても、正義には強制力の技法が要る。 今のところ親密圏の強制力については、「スパルタ式」「兵糧攻め(ひょうろうぜめ)」などの幼稚な語彙しかない。



 親密圏それ自体が戦いの掛け金となっている・・・・親密圏の破壊としての生政治 (略)
 震災は原因というよりは、潜在していたこれらの排除の問題が顕在化するきっかけにすぎない。 (pp.117-122、渋谷望

親密圏の破壊を、自己責任に還元しないこと。
また逆に、単に社会のせいにしても、親密圏の方法論を提示したことにはならず、「社会批判という作法で繋がること」を暗黙に要求したにすぎない*7。 ⇒ 少なくともまず必要なのは、《親密圏の作法》それ自体を、主題化すること。



 犯罪プロファイリングの展開において、「心理学的プロファイリング」から「統計プロファイリング」へと、主流となる分析手法の変化が生じている。 (略)
 統計情報を利用する犯罪捜査技術は、心理学的な「ギフト」を持つ敏腕捜査官が、神がかりに近い直感を駆使して犯人を見つけ出すプロファイリングのイメージとはほど遠いが、実用性の面では比較にならないほど優れている。犯罪者は、一個の人格として理解され、知の対象として構成される必要はなく、要素ごとに分けられた行動や属性によって機械的にチェックされる。ここでは個人は、まとまりを持った一人格とは見なされず、そのときどきに問題となるばらばらの行動や属性へと断片化される。 (p.95、重田園江)

直接は関係ないが、これを読んで思い出したのは、
斎藤学氏の本を読む「しんどさ」。
努力をある解釈方針に特化することで、かえってしんどさが増し、関係をこじらせてしまう。
必要なのは、主観的な方針に風通しをもたらし、関係性に具体的な手続きを生み出すことだから、これはかえって逆効果になっている。 ⇒「努力そのものがマッチポンプになる(もとからある問題構造の増強になっている)」の一例と思える。


ひきこもり経験者の多くは、心理学・哲学・文学など、《深さ》を探求するジャンルに主観性の手当てを求めるが、それはたいてい、悪循環におわる。 委縮した居直り、頭の悪い独りよがり、人を見下したナルシシズムに迷い込む方針は、苦しみの構造をそのまま反復している*8
本当の焦点は、みずからの解体と組み直しの、技法や手続きにある。 ⇒独りだけですることではないと気付けば、政治や法のモチーフが必須になる。



【関連】: 「家庭裁判所の在り方を専門家らが議論/横浜」(カナロコ

 元家裁調査官の山口美智子さんは「離婚の最大の被害者は子ども。離婚などによる子どもの引き渡し、面接交渉、養育費要求など家裁が扱う監護処分事件はここ10年間で2倍以上となった」と現状を説明した。
 その上で棚村教授は「家庭問題は、家裁で法的解決しても、福祉、医療支援の課題が残る。縦割り支援になっている弁護士会を含めた関係機関が連携、協力をすべきだ」と提案した。

「親密圏だから我慢する」という前提は、機能しなくなるように見える。
収入を得ない人が家族の黙認(contract ではなく consent)で生き延びることには、「家族への不当な監禁」という側面がある。 ⇒ 法的裁断と《親密圏の再構成》にかんして、社会環境全体での取り組みが要る。


労働や教育の研究はたくさんあるのに、それらの必要条件である《親密圏》は、放置されている。
コミュニティは、それが必要であると言っても、「作ろうと思えば作れる」ものではない。




*1:「話し合えばわかりあえる」という独りよがりな夢は、その皺寄せを身近な弱者に押しつける。

*2:努力の様式さえ違ってしまっているがゆえに、話し合いが不毛にしかならない

*3:児玉聡(こだま・さとし)氏による解説

*4:同じ文章は、『正義・家族・法の構造変換―リベラル・フェミニズムの再定位』pp.167-8 に収録されている(参照)。

*5:講談社『本』掲載の東浩紀氏の論考「一般意志2・0」第13回、「憐れみの海へ」が分かりやすい。 cf.「リチャード・ローティを脱構築する」(橋本努氏)

*6:問われているのは、主観性の方針が苦痛と共犯関係にある実態だ。 これは、基礎づけ主義がローティに向ける違和感ともやや違っている。

*7:その左翼的・全体主義的な作法に同意しなければ、逸脱者は親密圏をつくれない。

*8:カテゴリーに頼る精神医学も、そうした居直りをいつの間にか補強する。言説がマッチポンプをやってしまう。