努力の方法 

「とにかく家を追い出せ」というのは、重要な選択肢だと思います。


ただ、脱落したら二度と戻れないのがデフォルトの社会で、履歴書に傷のない人たちと同じ競争に入るのですから、多くは敗者になり、(1)亡くなるか、(2)一部は生活保護に回るでしょう。 ⇒ 「社会的コストはかえって高くつくのではないか」という疑念はあり得ると思います。


「無理に追い出せば、死なせてしまう可能性が高い」というのは、単に心理的なハードルではありません。 ご家族の保護責任者遺棄致死罪や、相談を受けていた関係各機関(医師やセンター)の責任問題にもなり得ます。 ⇒ 死なせても責任を問われないような法整備が必要です。


万難を排して、本当に追い出すとしても、「窮鼠ネコを噛む」があるので、
具体的な暴力を用意する必要があります(現場の活写例)。*1



では、このまま放置できるか。
放置すれば、生活圏内での行き倒れや自殺・孤独死異状死)多発のほか、どうしようもなくなった人たちの修羅場が容易に想像できます。 他人事だと思っていても、これは社会生活上のリスクになるでしょう*2


「追い込んでもダメ、ほっといてもダメ」――ではどうするか。
日頃この問題を考えていない方が思いつきそうなことは、もうみんな議論されています。
ですから、原理的に考え直し、取り組み直そうとする努力に、相応の敬意を払ってください。
ひきこもることしかできない人に苛立ちをぶつけたり、「もうブームは去ったよねw」と言うだけでは*3、ウサ晴らしにはなっても(限定合理性)、集団としての選択を間違います。



【参照】 ひきこもりの分析で対立 厚労省「精神障害」、内閣府「社会風潮」」(産経ニュース)

 「ひきこもり」の原因は精神障害か、それとも社会風潮か−。ひきこもり支援のあり方を検討するため、厚生労働省内閣府がそれぞれ実施した調査で異なる原因分析が提示された。「原因は精神障害」とする厚労省に対し、「原因は生きづらい社会風潮の進行」とする内閣府。関係者の間には困惑が広がっている。 (2010.12.5)

ここには、「精神障害か、社会風潮か」という二項対立しかありません。
私はここに、

      • 主観性の集団的なあり方が、問題をこじらせることに加担している。
      • だから、努力すればするほど問題構造を強化する状況にある。

という視点を、加えようとしています。
選ばれた方針それ自体が、問題構造を体現しており、
そこをテーマにしなければ、取り組んだことになっていない。


「偶然うまくいく」ではなく、自覚的に対策を練るなら、
努力のあり方そのものについて、原理的な考察が必要です。
そこをすっ飛ばして「やるしかない」と言っても*4
問題構造それ自体を反復し、古い対立構図を再生産するだけです。




*1:【2月5日の追記】: 逆に本人サイドからも、理不尽な暴力に抵抗するための手続き的暴力が必須です(手続き的暴力を調達できない個人は、暴発的暴力しか生きられない)。 既存社会でも自助グループでも、人の集まりはイジメや差別、詐欺的言動に満ち満ちている。抵抗するには、自前の強制力が必要です。 ご自分の生活が懸かったときには、人は間違いを認めません。その「ウソの確保」に組織暴力が加担するため、誰も反論できない。――そのままなら、泣き寝入りしかありません。 ▼ひきこもりでは、とりわけ親密圏の形成に難しさがあるため(手続き的暴力を呼び出す影のつながりは、親密圏として生きられます)、この問題に照準せざるを得ないのですが、既存の理論や知的言説は、このレベルをほとんど扱っていません。 親密圏だけは、自分たちの “自然” だと思い込んでいる。

*2:「リスク」という捉え方が良いかはともかく、そういう言葉づかいが一定の動員力をもつなら、活用する意義はあると思います。

*3:激論のブームは去っても、社会問題は去ってくれません。 いずれにせよ既存の包摂制度は、機能しなくなると予想されています(参照)。

*4:ひきこもる人の多くには、むしろ気合い主義しかありません。 「今度こそは」と、これまでと同じ仕方で気張っても、短期的にしかうまく行かず、それを繰り返すうちに事態はどんどん深刻になります。