制度疲労――意識・関係・マクロ

ひきこもり経験者たちの議論に、聞くに値するヒントの萌芽はあるとしても、既存の論争に合流してガチでやり合うほどの能力やレベルには達していない。たいていは愚にもつかないナイーブごっこであり、「ボクの気持ちをわかって」か、「本当はこう考えるべきなのに、世間は間違ってる」的なこと*1。 ある提言をしても、それが思想史的・機能的にどういう意味をもってしまうかに自覚が及ばず、したり顔でふんぞり返るだけ。硬直した同じ議論を、相手にされない人たち同士で褒め合ってる*2


かといって、「相手にされた人たち」も、多くは制度的な保身でしかない*3。 だから問題は、肩書きの有無ではない。 その人の議論は、制度内の自己確認なのか、それとも必要な換骨奪胎に成功しているのか――そこで判断しなければならない。 所属上フリーな人は問題意識が柔軟かというと、そんなことはまったくない。


ある反論を試みていることは間違いないのだから、それを徹底してレベルアップする必要がある*4。 自意識に閉じるしかできない、ダメな部分をそのまま反復したような語りでは、新しい提言として機能しない。


議論のレベルを上げることが、そのまま社会参加の訓練であり、実務となる*5

ひきこもる姿は、「議論の硬直」そのものであり、ひきこもる人は、硬直した論点として実存する。



考えてみれば左翼も、古い議論体質でコミュニティを維持する、既得権益団体といえる。
合流するには、彼らの問題意識(=関係様式)をなぞらなければならない。それは制度内の自己確認*6であり、いくら熱っぽく議論を続けようが、現実を考え直すことも、自分たちの参加を練り直すこともない。――やらなければいけないのは、自分たちなりの編集方法の刷新なのだ。


私たちの意識じたいが、制度的に反復され、生産されるものだと気づけば、
《編集方法の刷新》は、まさに臨床上の課題だとわかる。
努力が始まった瞬間、旧態依然の編集方針が支配するから、何もかも古いままになる。おのれの意識も関係づくりも、失敗してきたやり方*7とまったく同じ。 その硬直の姿は、閉じこもる人だけの問題ではない。意識にも関係にもマクロにも、制度疲労が溜まっている。

    • 逸脱(と見えるもの)を単に肯定しても、今度はその肯定の身振りが対象ごと硬直する。ある場面でアクチュアルだった身振りも、反復すれば官僚化する。たとえば不登校周辺の文化は、80年代からおぞましいほど変わっていない(参照)。
    • ひきこもり状態を、《制度硬直によるアクチュアリティの喪失》と定義的に記述できる。 たとえば嗜癖は、まさに制度硬直として生きられる。 ▼ここでの制度概念は、メルロ=ポンティやグァタリを参照した斎藤環氏は「システム」という語を採用しているが(「ひきこもりシステム」)、それでは、記述側の動きを位置づけにくい*8。 静態的なモデル化は、描く側がみずからの行為を主題化できないため、《努力じたいが制度疲労に陥っている》という、肝腎のモチーフを扱うことができない。
    • こうしたことは、医療・福祉業界における役割理論的な硬直とセットになっている。




*1:感情レベルがベタにあり、べき論がメタにあり、それぞれが乖離したまま肯定されるだけ。 ⇒身を切るような利害に介入し、責任を引き受ける形に展開できるかどうか。――これは、既存社会の問題意識のあり方ごと変えてゆかざるを得ない。感情論とべき論が乖離したまま、制度疲労を起こした問題意識と関係性が反復されてゆく姿は、既存社会のあり方そのもの。

*2:まともな批評がなされないということは、相手にされていないということだ。 「障碍者がしている議論だから、そーっとして褒めてあげればいい」という扱いでしかない。

*3:たとえば医師の多くは、医師という役職に閉じこもるための議論を最優先にする。同様のことが、それぞれの職について言える。

*4:単なる順応主義ではどうしようもないが、既存の文脈に内在できないようでは、そのまま終わってしまう。

*5:攻撃性だけでは、マネジメントとして破綻している。

*6:既得権益への迎合

*7:それはひょっとすると、何十年か前には勝ちパターンであり、そこに嗜癖しているのかもしれない。

*8:記述行為じたいがメタに位置づけられてしまう