親密圏の「研究」

親密性の社会学―縮小する家族のゆくえ (SEKAISHISO SEMINAR)

親密性の社会学―縮小する家族のゆくえ (SEKAISHISO SEMINAR)



親密な関係はこれまで、学術的考察の対象ではなかったらしい(同書p.1)。
著者ご自身による、「10秒で分かる要点」:

 親密な関係には独自の効率性があり、それゆえにそこから得られる満足は市場や政府に代替されにくい。(「民でできることは民へ!」と言われてもできないものがある。しかも官にもできない。)*1



身近な関係を対象化するのに、「潜在的機会費用」「ホールドアップ問題」など、経済学の用語が試みられているのは、勉強になったし、苦痛緩和にも役立つと思う。 しかし一方、いま望ましい関係を生きられない人が「どうしたらいいか」については、期待できないと感じた(「事業が違う」というべきか)*2
コストをかけて調査を行い、それに協力しても、親密圏は「メンタルな満足を効率的にもたらしている」「人物評価のコスト削減になる」といった事後的な(ある意味では当たり前の)結論しか出てこないなら、社会学に取り組む者に私的機会*3を提供しているだけになってしまう。――社会学は、それ自身があるパターンでの社会性*4を生きることになっていて、それを再生産するかたち以外では、関係性を検証できない。


参与観察では、「観察者」というのんきな地位はあり得ない。親密圏という事業の一端を担い、生々しい関係資源を、自分の業績に奉仕させる。 ここで社会学者にとっては、「仮説を検証すること」が第一義であり(参照)、親密圏を内側から利用したいきさつは、二次的なエピソードにすぎない。

 フィールドワークを専門にしているある知人の研究者から、次のようなジレンマを聞いたことがある。フィールドワークの対象となる集団の人々から有用な情報を得るために、その人たちとのつながりを多大なコストをもって構築する必要がある。そしてそのつながりは、その人たちをあからさまに「調査」することによって断たれてしまうことがある。というのは、調査は「調査する者とされる者」という関係を調査対象者との間に多かれ少なかれはっきりと示してしまい、対象者との関係にマイナスの影響を及ぼすからである。 (同書p.187-8)

取り返しのつかない一回きりの関係性を当事者として生き、それを自分の業績に使うのに、
介入行為そのものが方法論的に位置づけられていないのだと思う。
 ⇒「社会学は、すでに承認を得た学問事業だから、人々は協力して当たり前」という、専門性への《埋め込みがないだろうか*5



たとえば「ひきこもり」という、親密圏のダメージこそが問題となっている現象で、自分の研究のために親密になり、私的恩恵をさんざん吸収した後になって、実際に生きられた関係性を検証する作業さえ拒否するというのは、調査倫理として許されるのか。

 親密な関係はインフォーマルな関係であり、たとえ不完全なものであろうとそこに契約的要素を持ち込むことは避けられる。特に友人関係や恋愛関係は自己完結的なものであり、純粋関係であることが期待される度合いに応じて、外的な基準や契約をそこに持ち込むことが抑制される。 (同書p.105)

このことが、研究に利用される。
研究対象は、ろくな契約も結ばないで “信頼関係” を結ぶ。


ご自分たちは親密圏を公私にわたって利用しながら、そこでどういう言動をとったかを公的に検証されることは拒否するなど、許されるはずがない*6。――この問題提起は、「ひきこもりは、親密圏に居直る暴力ではないのか」という検証と同時にしか成立しない。 「社会学者による、学問事業への引きこもり」を許さないのであれば、実際に引きこもる側も、自分の社会的状態やその方法論に居直ることはできない*7。 私はその《検証プロセス》の相互的な起動をこそ、臨床活動と見なしている*8

調査する側がご自分の社会的態勢に無自覚なまま引きこもりを対象化し、「ひきこもる人だけを問題化する(構築する)」のではなく、そもそも社会参加や親密圏の生きられかたを、みずから自身が変えてゆくのでなければ、ループ的な影響関係を論じることはできない。(ループするのは、「概念」だけでなく、関係性の態勢そのものであるはず。)




*1:著者による関連エントリー:「公共圏と親密圏(その1)」、「(その2)

*2:筒井氏は禁欲的だが、たとえば(社会学者である)宮台真司氏は、親密圏の関係性についても処方箋めいたことを口にしている。 精神科医にも言えることだが、ご自分が能力を高めた専門性の守備範囲と、「実際に問題になっていること」との関係をつかみ損ねている。

*3:就労や業績生産のチャンス

*4:文脈上 評価された有用性

*5:筒井氏の同書では、市場やシステムによって《脱埋め込み》された個人が、親密性によって《再埋め込み》されねばならない必要が語られる。 ⇒「社会学という学問事業に埋め込まれることで自分の居場所を得る」、そういうプライベートな動機づけがあってもおかしくない。 そこでは学問という(いっけん公的な)システムが、私的利益のために利用されている。 ▼その一方で、国が税金をかけて行なった社会調査のデータが、社会学者には利用できない現状があるという(本書p.186)。 学問事業が社会的に根付いていないために、しわ寄せが末端の調査行動に出ている、という面も感じる。

*6:私は、研究に協力した大学院生のひどい言動(見下しや脅しをおこない、関係性を公開で検証することを拒否)について、その指導教官に抗議したことがあるのだが、「学生本人がそういう話し合いを望んでいないので」(大意)と、モンスター・ペアレントのような対応を受けて終わっている。 ▼親密圏に介入した研究者によるひどい言動(また逆に、研究者が受けたひどい扱い)については、「医師-患者関係」等と同様に、今後も継続して扱う。

*7:「方法論」は、それ自体が臨床上の病理であり得る。 嗜癖論では、たいてい3つの分類がなされるが(参照)、「ディシプリンへの嗜癖」が問題化されるべき。 ひきこもる意識は、「ディシプリンへの嗜癖」に似通う。 ▼「方法論」は、自覚的に選択されたものとは限らない。むしろ方法論こそが、無意識的な信仰システムなのだ

*8:私が斎藤環氏に「観客席」と言ったのは(参照)、このモチーフゆえだ。 すでに参加している側がご自分の参加形態を疑わないのであれば、《参加という現象》そのものを、臨床的に主題化できない。 企業やヤクザといった中間集団についても同じこと。