カルトとスピリチュアリティ―現代日本における「救い」と「癒し」のゆくえ (叢書・現代社会のフロンティア)
- 作者: 櫻井義秀
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2009/01/01
- メディア: 単行本
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カトリックの信仰者であり、宗教学者でもあるという渡辺学氏の論考
「過程としての回心」 に付された注23(p.110)より(強調は引用者):
私は、彼らへのインタビューを繰り返すうちに宗教学者としてのアイデンティティの危機をたびたび感じさせられた。それは、このようなインタビューには宗教学者という枠組みを突破せざるをえない性質があるためである。インタビューされた人々は、私を宗教の問題の専門家として認識し、私に当然のように助言を求めてくることになる。こちらもそれなりにその期待に応えることにならざるをえない。このようにしていくうちに、調査者と調査対象となった人びとは、ともに共通の現実を構築していくことになる。ここに古典的な意味での客観性は存在しない。Cに助言をしたカトリックの宗教学者とはほかならぬ私である。私は、Cさんのその後の噂は聞いていたが、2004年10月にお会いしてから2006年12月末になるまで顔を合わせたり連絡を取り合ったりすることはなかった。また、AさんとBさんがカトリックになるということは、まったく私の想定外の出来事であった。私が彼らに取った態度は、それぞれの信仰上の立場を尊重する受容的な態度に他ならなかったからである。はたしてそれが意図されざる宣教になったのだろうか。このように、現実を共有するうちに、本章を執筆する行為自体、私自身がどのような存在なのかを明らかにする行為のようにも思われてきた。私は、質的インタビューが持っている相互的性格についてさらに研究を深める必要を感じている。
調査でも支援でも、生きられた関係性は、そこに参加する者が協働で作り上げる現実になる。 まさにこの《共有された現実》こそが、双方の実態を浮き彫りにする。
私は、この「注23」が持ち得る重大さをある職業的社会学者に伝えたのだが、そのかたによると、これはアカデミズムでは認められない語りに属するとのこと。詳しくお聞きする時間はなかったが、要するに「観察者としての客観性を維持できておらず、調査対象者に対して、調査者の信仰が影響を与えてしまっている」ということらしい。 【追記: しかも調査対象者の変化に他人事を決め込むのではなく、注のかたちで正直に顛末を打ち明けたことで、アカデミックな論文としての形式を逸脱している、と。】
だが、それを言って終わるだけでは、この「注23」が胚胎する意義が潰される。実際の関係で生きられてしまったことを報告し、そこに何があったかを分析する、このような姿勢だけが維持する外部性があるというのに。
私たちは、分かりやすい実定宗教でのみ信仰状態を生きるのではない。つねにすでに、自覚されない思い込みがあり、それは集団において、不透明な党派性として生きられる*1。 それはフロイトでいえば無意識のようなものであり、解消はできない*2。 いわば 《終わりなき脱洗脳》 のもんだいだ。
「学問的思考は信仰ではない」というだけでは、学者の言動を検証できない。――「ディシプリンにもとづいて理解できればよい」という思い込みが、そう語る自分たちの集団的・構造的な確信を対象化することを不可能にしている。 これでは調査過程のスキャンダルが、検証もされないまま闇に葬られる(学問言説の構造そのものが生みだすサバルタンがあり得る)*3。
ひきこもり問題においては、各人の思い込みと、それが集団を成すことの関係にこそ難しさがあるのだから、そのフィールドに入るために研究者がどんなテクニックを持ち込んだのか*4、そこにどんな経緯が生じたかを無視するなら、いちばん肝腎のことは何も分析されていない。――それどころか、傲慢なメタ目線を持ちこんだことで、フィールドにはどんな影響が出てしまったのか。現場の関係こそが、学問事業の抑圧に組み敷かれてしまったのではないか。
おのれの失敗や思いもかけない顛末を報告して分析することは、むしろ本当の意味での集団的現実に肉薄することであり、そしてこのような分析こそが、集団や親密圏で常態化されるべきなのだ。つまりこれは、単に学問への文句ではない。日常的な関係性への処方箋になっている。
交流のあとで、そのつどそれを分析するメタが許されることは、最初からメタを気取って威圧するのとは別のことだ*5。
関係そのものに不可避に生じてしまう分析が圧殺されないなら*6、最も親密な関係にすら分析を加えることが許される。 「これは学問だから」という口実のもとに、ドメスティックな暴力が放置されることもない。
「信仰があって、それとは別に学問がある」のではない。 思想は、主観性の集団的なアレンジメントとして、どんな集団にもすでに生きられている(agencement collectif d'énonciation)。 私たちはそれをそのつど分析するべきであり、学問という口実のもとに、生きられた関係を放置すべきではない。 調査主体が生きてしまった主観と関係性を他人事のように語るかぎり、その調査者や学者の共同体は、学問を信仰として生きている*7。
関係性においては、誰ひとりメタなど維持できないのだから、「生きられた関係をそのつど分析してもかまわない」という外部性を、単なる信念ではなく、技法レベルで確保しなければならない(参照)*8。 自分の身近な関係実態をいっさい分析せず*9、「友達を作らねばならない」とのみ言う学者や知識人は、メタポジションを維持する自分の語りが試行錯誤をスポイルしていることに気づいていない。
親密圏はメタ言説に威圧され、業績競争とインテリごっこだけが続いてゆく。
それを引きこもる本人が模倣する・・・・
ここでは、誰も必要な分析をしない。
「○○学」の体裁だけはあるのだろうが。
*1:ある主観性のパターンと、集団的な党派性は同時に成立する。 ドゥルーズ/ガタリの概念「agencement collectif d'énonciation」は、それをこそ名指したものだろう。 つまり、「現実の集団的構築」。 ▼いわゆる構築主義は、集団的な現実が人工的構築物であることは指摘するが、それを論じるご自分だけはメタにいるように見える。 だから、学者たちだけはメタ的なアリバイを維持しており、調査対象者との転移関係を分析する渡辺学氏の取り組みが「逸脱」になってしまう。 たとえば渡辺氏の接した相手が、カトリシズムではなく構築主義に夢中になり出したら、それは許されるのか? メタに立つと称する社会学者は、おのれの接触に生じた影響関係(構築された共通の現実)の分析を、封殺するのだ。
*2:党派的思い込みから解放されたメタな認識などない。その意味でこそ、「メタ言語はない」。
*3:学問事業やそれの強いる関係性そのものが、構造的に隠蔽するスキャンダルがある。 「学問意識の帝国主義」とでも呼ぶべきか。
*4:それを単に「コミュニケーション能力」などと、神秘化しつつ量的問題に還元するのは調査者のナルシシズムでしかない。 あるいは政策論が「コミュニケーション能力」と言うのは、能力の内実を神秘化したまま義務を押し付けるだけだ(使用価値を無視し、価値しか見ない資本のように)。 ▼誰でも経験することだと思うが、私たちの「コミュニケーション能力」は、相手や環境によって大きく変わる。 それに気づかないままのコミュニケーション論は、関係性を破綻させる共犯者といえる。(逆にいえば、関係性を気遣う課題から逃れられる個人は一人もいない。たとえ「弱者」といえども。)
*5:最初からメタを気取ることのなんと「男性的」なことか。 弱者擁護のマッチョ主義は、DVの温床でしかない。 メタ言語は、親密圏の暴力を無視する共犯を成している。
*6:制度分析や党派分析、あるいは親密圏の分析は、「やむにやまれず湧いてくる怒り」のようなものだ。 私はドゥルーズ/ガタリの分析を、そのようにしか理解できない。
*7:機能上の要請を満たすために、自覚された形式的禁止として学問を生きるのではなく、頭から「それ以外は許されない」という思い込みとして、ディシプリンが唱えられ続ける。 同様のことが、医師や支援者にも言えるし、(ここが肝腎なのだが、)ひきこもる本人も、メタ的な学問意識を生きているからと言って、身近な関係性を無視することは許されない。そして関係性への介入には、具体的な力と技法が要る。
*8:最初から最後まで「自分だけはメタである」と主張するのは、《信仰=党派性》を強要する暴力でしかない。
*9:社会学者は、ヤクザとの関係まで誇示してメタ的に周囲を威圧している。 ここで問題なのは、単に「ヤクザだから」ではない。 真に問題なのは、関係実態への分析を拒絶する、そういう関係マナーを当たり前のように強要していることだ。 【追記: ある個人に問題があるとしても、その人は、所属先のコミュニティではおかしいと思われていない。本当の厄介さは、そんな人物が正しいとされている、党派(あるいは学問・国家など)の体質そのものにある。ここでは、集団的な脱洗脳の技法が問われる。(とはいえ被洗脳は、確信犯の居直りと区別がつきにくい。何らかの利益や思惑があれば、信じていなくても「そうする」だろう。)】